明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

セシル・B・デミル『破戒』


映画を見はじめたとき、デミルはすでに過去の巨匠だった。というか、わたしが生まれたときには彼はもうこの世にいなかった。テレビでときおり放映される彼の映画は、『十戒』や『サムソンとデリラ』といった聖書を題材にしたスペクタクル映画ばかりで、どうもその手の映画ばかり撮る人という印象があった。その後、『平原児』をはじめとする西部劇などを見て、デミルの印象も少しずつ変わっていったが、彼が撮ったサイレント映画など知らなかったし、見る機会もなかった。

今から20年ほど前に、雑誌「リテレール」別冊として出版された映画ガイド本『映画の魅惑』のなかで、中条省平は、自分が選んだ伝記映画ベスト50の中に、カール・T・ドライヤーからリヴェットにいたるジャンヌ・ダルク映画を7本も入れ、その中には、未見のマルコ・ド・ガスティーヌ監督作『ジャンヌ・ダルクの驚異の生涯』さえ交じっているというのに、デミルがサイレント時代に撮った『ヂャンヌ・ダーク』(JOAN THE WOMAN, 16) については、なぜだか一言も触れていない。デミルのサイレント時代などだれも知らなかったのだ。

この状況は今でもたいして変わっていない。近くにシネマテークがある人ならともかく、デミルのサイレント映画で簡単に見られるものといったら、『チート』『男性と女性』ぐらいしかない。山田宏一が「サイレント映画について書かれたもっとも素晴らしい書物」とどこかで書いていた『The Parade's gone by...』の著者ケヴィン・ブラウンロー(『It's Happened Here』というユニークな占領映画を撮っている監督でもある)は、デミルの没落は1918年にはじまるとさえ言っている。だとするなら、サイレント時代の彼を知らないわれわれに、デミルのなにが分かるというのか。

(デミル版ジャンヌは、ジェラルディン・ファーラーというやけに肉感的な女優が演じていて、他の女優が演じたジャンヌものとはずいぶん雰囲気がちがう。ジェラルディン・ファーラーは、元もとオペラ歌手で、映画の世界にいたのはほんの数年にすぎない。知っている人は少ないだろう。しかし、ケヴィン・ブラウンローは、『The Parade's gone by...』のなかで、彼女のために一章をさいている。)



セシル・B・デミル『破戒』(The Godless Girl, 29)

デミルのサイレント時代最後の作品。これも聖書に関係あると言えばある話だが、スペクタクルな歴史物ではなく現代劇だ。

ハイスクールのなかで無神論を説くグループと敬虔なグループが対立している。無神論派のリーダーの娘(リナ・バスケット)と、有神論派のリーダーの青年(ジョージ・ダーイ)は、実はたがいに惹かれあっているのだが、そのことを口に出せずにいる。あるとき、無神論派の集会がおこなわれているビルの一室に、有神論派のグループがなだれ込み、乱闘になる。集会場のある上階へとつづく長いながい階段を、マキノ雅弘の『恋山彦』を思い出させる縦移動で捉えたクレーン撮影が印象的だ(『恋山彦』では階と階のあいだに黒みが入るので、そこでショットを繋いでいたと思うのだが、『破戒』のこのシーンでは、実際に高い階段のセットをつくって撮影しているはず)。

集会場の中で激しくやり合っていた2つのグループの若者たちは、押し合いへし合いしながら部屋の外に出てくる。そのとき、階段の手すりが壊れてひとりの少女が転落し、死んでしまう(この転落シーンの演出も素晴らしくダイナミックだ)。この事故が原因で、両グループのリーダーの娘と青年は、ともに刑務所(あるいは感化院?)に入れられてしまう。ここまでが冒頭の10分ぐらいの出来事で、映画の大部分はふたりが入れられる刑務所の中で展開することになる。

デミルのことだ、たぶん、神を信じていない娘が最後に信仰に目ざめるという話になるのだろう。むろん、その予想は的中するのだが、この映画は思っているほど単純な構図にはなっていない。サイレント時代から衣装監督、あるいは助監督としてデミルの映画に参加していたミッチェル・ライゼン(『破戒』のセットも彼が担当)は、のちにこう語っている。「デミルにはニュアンスがなかった。彼の映画ではすべてが大文字でこう書かれていた。欲望、復讐、エロティシズムと……」。しかし、『破戒』は、「悪しき無神論者」と「良きキリスト教信者」の二元論というわかりやすい図式にはなっていない。最初からこの2つは、「イントレランスイントレランスの闘いである」と、ニュアンス豊かに表現されている。無神論派の娘と有神論派の青年が、偶然、刑務所の男子房と女子房をわける金網にそって歩く場面がある。娘の方が、「神を信じている者も、神を信じていない者も、結局、この地獄のようなところに落ちてしまった」という意味のセリフを言う場面が印象的だ。

大部分が監獄を舞台に展開するこの映画の中で、とくに目を引くのは看守のサディスティックな描き方だ。看守がことあるごとに囚人をいじめ抜くというのは監獄ものの常套だが、この映画ではその描写がなかなかえぐい。先ほどの金網越しに、娘が青年に手袋を渡すシーンがある。金網越しにふたりの手が触れあった瞬間をみはからって、看守が金網に高圧電流を流す。すると、金網をつかんだままビリビリと感電するふたりの手から白い煙が上がるのだ。やっと金網から手を離した娘が両手を見ると、手のひらに十字架の形をした火傷ができている……。あざとい演出ではあるが、こういう小さな名場面があちこちにあって、飽きさせない。

ケヴィン・ブラウンローにしたがうなら、『破戒』のころにはすでにデミルの没落ははじまっていたことになる。しかし、随所に斬新な演出も見られ、こちらのほうが晩年のスペクタクル巨編よりもずっと新しく見えるぐらいだ。なによりも見ていて面白い。