明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


このサイトはPC用に最適化されています。スマホでご覧の場合は、記事の末尾から下にメニューが表示されます。


---
神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

---

評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

韓国映画を見る1


『映画史』のゴダールは、日本には個々の映画作家はいても、日本映画というものは存在しないという意味のことを言って物議を醸した。ゴダールのファンでさえ、それは言い過ぎだろと思ったものだが、韓国映画史を30年代から振り返ってみるうちに浮かんでくるのは、韓国映画というのは本当に存在したのだろうかという思いだ。

20世紀の初頭から日本の統治下にあったという特殊な事情を考慮しても、現存するサイレント映画は1本しかなく*1、30年代につくられた映画さえ、まともなかたちで残っているのは3本だけというのは、いくらなんでも嘘だろと思ってしまう。これはなにも戦前だけの話ではない。戦後になっても松竹や日活に比すべき大手プロダクションは生まれず、50年代の朝鮮戦争、60年代になっての軍事独裁政権の成立といったぐあいに、映画業界の発展をはばむ事態が次々と起きる。こうした事態に加え、もともと映画フィルムの保存に対してはそれほど意識は高くなかったためか、60年代になって撮られながら、つい最近までフィルムが紛失していたものさえある。

韓国映画を何作品かまとめてみると、俳優のストックの貧しさも実感した。どの映画を見ても、同じ俳優が使い回しされている。華やかな男優・女優にあふれるいまの韓国映画とは大違いだ。

いろんな意味で、一昔前の韓国映画は、地味でつまらないというイメージがあった。しかし、それは本当なのか。ただ知らないだけではないのか。そう思って、手当たり次第に見ていっているところである。しかし、今のところ、そのイメージはそれほど大きく変わっていない。韓国の文化や、韓国社会の変遷、歴史的事件の裏側などがわかるといった意味で興味深い映画ならたくさんある。けれども、純粋に映画的に興奮させてくれる作品は、ごくわずかだった。


わたしが見た作品について簡単に覚書を書いてみた。最初は、20本ぐらいまとめて書くつもりだったが、書いているうちに長くなってしまったので、何度かにわけて紹介することにする。最初は、年代順に書いていたのだが、それもつまらないので、テーマ的に関係ありそうなものを並べてみた。

ヤン・ジュナム『迷夢』Sweet Dream (36)


2000年代に入って、韓国では過去の映画フィルムの発掘、修復、DVD 化が急ピッチで進められている。一昔前までは、終戦直後に撮られた反日映画『自由万歳』(46) が、現存する最古の韓国映画と考えられていた。その後、2005年になって、この『迷夢』が中国の中国電影資料館に保管されていたのが発見され、韓国最古のフィルムとして認定された。その数年後には、34年作の無声映画『青春の十字路』のオリジナルネガが韓国国内で発見されたので、『迷夢』は「韓国最古のフィルム」の称号をすでに失ってしまっている。しかし、トーキー作品としては、『迷夢』がいま残っている最古の韓国映画であることに変わりはない。

結婚して娘もいる人妻が、買い物さえも自由にさせてくれない夫を捨て、家を飛び出す。『迷夢』のこの冒頭の部分までは、当時日本の支配下にあった韓国で上演されていたというイプセンの『人形の家』の影響をうかがわせもする。しかし、あたかもその罰であるかのように、ヒロインが愛人に裏切られ、さらには自分の乗ったタクシーで娘をひいてしまい、過ちを悔いて自殺するという展開は、因習的なものでしかない。ここに描かれているのは、日本統治下の朝鮮におけるベストセラーである「タクチ本」にもしばしば取り上げられていた「新女性」と呼ばれる女性のひとつの形であったと思われる。男性中心的な韓国社会と、軍国主義日本からの二重の制約を受けていた当時の韓国の女性たちの中から、新しいイデオロギーを抱いて自立を目指す女性たちが現れてきた。そうした女性たちが「新女性」と呼ばれていたようだ。この映画のヒロインにも、当時の韓国社会が反映されていると思われる。ただし、この映画のヒロインの描かれ方にはポジティヴなところはほとんど見られない。彼女が家を飛び出す理由は、夫が高い服を買うことを許してくれないという自己中心的なものにすぎず、いまのわれわれが見ても、自立を目指す女性というよりは、ただの身勝手なエゴイストにしか見えないだろう。

ハン・ヒョンモ『自由夫人』(56)

大学教授夫人が、洋服店に働きに出たのをきっかけに、やがてダンスを覚え、ついには夫以外の男性と関係を持つようになるが、最後には、自分の行いを悔いて夫に許しを請う。

どこかで聞いたような話だ。ヒロイン自身は、結局、夫に許されて家庭に戻るのだが、彼女をそそのかして、ある意味、道を踏み外させた彼女の友人の女は、悪い男にだまされて最後に自殺する。『迷夢』から30年たってもなにも変わっていない。ただ違うのは、戦後韓国における物質文明の浸透ぶりと、女性の欲望があからさまに描かれていることだ。物語の展開自体は古めかしいが、当時の社会風俗の描き方には攻めの姿勢が見て取れる。

シン・サンオク『離れの客とお母さん』(61)

タイトルは若干わかりにくい。わたしなら「未亡人と下宿人、うれしはずかしドキドキ生活」とでも名付けたいところだが、別にエロティックな作品ではなく、むしろ抑制のきいた描写が叙情性を高めている作品である。

うら若き美貌の未亡人の家に、一人の男が下宿することになる。ふたりは次第に惹かれあうようになるのだが、どちらも最後まで自分の思いを伝えることなく、男が乗った列車が遠ざかっていくのを、女が遠くの丘から見つめるところで映画は終わる。ふたりは手を繋ぐことさえなく、それどころか、同じフレームの中に収まることさえほとんどない。そんなふたりの関係を、男女の機微を理解できない少女の目を通して描いた作品である。

おそらく、もっとも有名な韓国映画の一本だと思うが、わたしにはいささか退屈だった。

アン・チョルヨン『漁火』(39)

これも中国電影資料館にてフィルムが発見された作品だ。

監修に島津保次郎、編集に吉村公三郎といったぐあいに、松竹の技術スタッフが大きく関わっているのが注目される。しかし、これはこの時代の韓国映画においては、たぶんさして珍しいことではなかったのだろう。占領時代にデビューした韓国の監督の中には、日本で映画作りを学んだというものも少なくない。また、『迷夢』もそうだが、この頃の韓国映画には、プリントに日本語字幕が入っているものがほとんどだ。日本人にはありがたいが、植民地主義の痕跡がフィルムに刻まれていると思うと複雑な気持ちになる。(日本語字幕といっても、フィルムの劣化にともなってかなり読み取りにくくなっているので、あまり期待しない方がいい。)

貧しい漁師の娘が、海で死んだ父親が残していった借金を返すためにソウルに働きに出るが、悪い男にだまされて純潔を失ってしまう。娘は自殺まで考えるが、最後に、恋人に救われて故郷に帰って行くという物語である。話はありきたりだし、人物描写にも深みがない。『迷夢』同様、作品そのものにはそれほど魅力はないのだが、それでも興味深い点は多々ある。前半に描かれる漁村の叙情的描写、後半に描かれるソウルの街の様子などが、とくに興味を引く。このころのソウルは「京城」と呼ばれていて、字幕でもそのローマ字読みでキョンソンとなっていたはずだが、登場人物たちはふつうに「ソウル」と言っていたように思う。

下写真の DVD (yesasia) には、『迷夢』『漁火』のほかに、30年代に撮られた親日プロパガンダ映画『軍用列車』が収められている。


キム・スヨン『浜辺の村』(65)

モノクロ・シネマスコープで撮られた文芸映画。

新婚早々に漁師の夫に先立たれた若妻が、亡き夫への思いと義母への義理に引き裂かれながら、流れ者のような男と再婚して村をあとにする。男と結婚した女は、あちこちを転々としながら、それなりに幸せなその日暮らしを送っていたが、ある日、夫が崖から転落し、またしても未亡人になってしまう。映画は、女が故郷の漁村に帰って行くところで終わっている。

『漁火』と基本的なストーリー・ラインが似通っていることがまず興味を引く。ヒロインは、故郷の漁村から遠く離れて、山小屋で生活しているときでさえ、知らず知らずのうちに水辺に引き寄せられてゆく。故郷はいつまでも変わらずに自分を受け入れてくれるというのが、この2作品に共通するイメージだ。

漁村の生活を描いた前半では、開放的な性の描写が目を引く。未亡人にしつこく迫っていた男が、深夜、女の寝室に忍び込み、隣で家族が寝ているのもかまわず、なかば強引に彼女をものにしてしまう場面も印象的だが、それ以上に、漁師の妻たちのガールズトークがかなりきわどくてびっくりする。この映画に登場する女たちは、ほとんどが海で夫を失った未亡人だ。成熟した体をもてあましている女たちが、男たちのいないところで交わす会話は驚くほどあけすけで、女同士の同性愛をほのめかすような描写さえある。

イ・マニ『森浦への道』The Road To Sampo(75)

行きずりの男2人女1人の3人が、雪深い田園風景の中を旅する韓国ロード・ムーヴィーの走りのような作品。やるせない雰囲気がどこか藤田敏八の70年代作品を思い出させる佳作だ。最後に三人は散り散りになり、その中の一人が乗ったバスが、彼が長い間離れていた故郷に近づいていくところで映画は終わるのだが、バスの乗客の会話から察するに、どうやら彼の故郷は昔の面影をすっかり失ってしまっているらしい。『漁火』や『浜辺の村』では、いつでも帰るべき場所として存在していた故郷は、もはや確固とした存在ではなくなっている。


ペ・チャンホ『ディープ・ブルー・ナイト』(85)

海を越えて出稼ぎにやってきてアメリカに不法滞在する韓国人の男が、手っ取り早くアメリカ国籍を手に入れるために、アメリカに住む韓国人女性と偽装結婚する。国籍さえ手に入れば、女と別れて、韓国に住む妊娠中の妻を呼ぶ予定だった。しかし、次第に歯車は狂ってゆく。

ペー・チャンホ版『砂丘』とでも呼ぶべきこの作品の中で、主役の韓国人男性も、彼が偽装結婚する女性も、ともに帰るべき故郷をすでに失っているだけでなく、彼らにはいま自分がいる場所さえ定かではない。冒頭と最後に現れる、『森浦への道』の寒々とした雪景色よりもさらに空虚なデス・ヴァレーの光景が、アメリカン・ドリームの残骸のように見えてくる。ペ・チャンホの傑作の一つ。

*1: 実は、もう一本残っているサイレント映画があるのだが、これは韓国映画がすでにトーキー化してひさしい48年(!)に撮られた作品である。