明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ポルトガル映画祭覚書〜『トラス・オス・モンテス』を中心に


アントニオ・レイス『トラス・オス・モンテス』★★★★☆


京都駅ビルシネマで開催された「ポルトガル映画祭2010」について。

詳しいレビューを書く気力はないので、それは他の優秀なブロガーさんの記事に任せることにして、次に神戸アートビレッジで上映されるときに見に行く人のために一言三言だけ触れておく。

今回上映される作品には駄作は一本もない。しかも見逃せば当分見られそうにない作品ばかりだ。見てない作品があれば残らず見ておくことをおすすめする。全部見たところでせいぜい一万円程度だ。
とはいえ、そんな暇も金もないという人もいるだろう。そんなひとは、とりあえず、『トラス・オス・モンテス』だけは見ておいてほしい。これが驚くべき傑作だからというのが第一の理由なのだが、もっと実際的な理由もある。オリヴェイラモンテイロは、いずれ紀伊国屋あたりから主要作品が DVD でまとめて出る可能性が十分高いが、この映画は海外でも DVD にはなっていないはずだし、なりそうな気配も今のところない。今回見逃せば、向こう十年は見る機会がないなんてこともありうる。是非この機会に見ておいてほしい。

アントニオ・レイス、マルガリーダ・コルデイロの『トラス・オス・モンテス』は本当にすごい映画だ。しかし、この映画のすごさをどうやって説明したらいいものか。説明するのは面倒だから、とにかく見に行けといいたいところだが、それでは投げやりすぎるだろう。うまく伝わるかどうかは分からないが、とりあえずやるだけやってみることにする。

アントニオ・レイスは1927年生まれ。オリヴェイラの『春の劇』に助監督として参加したレイスが、そのロケ地であるトラス・オス・モンテス地方に再び戻って撮り上げた作品が、この『トラス・オス・モンテス』である。

ポルトガルの北東部、ドウロ河の北に位置する山岳地帯トラス・オス・モンテスは、"beyond the mountains" を意味するその名前の通り、山によって周囲から隔絶された場所だ。人々は、何世紀も前から変わらないような貧しい生活を今でも続けている(少なくともこの映画が撮られた頃までは)。アントニオ・レイスはこの地の人々の暮らしをフィルムに収めながらこの映画を作り上げていった。形だけ見ると、ブニュエルの『糧なき土地』に似ていなくもないだろう。しかしこの映画は、純然たるドキュメンタリーではない。かといってフィクションとも言い切れない。とらえどころのないやっかいな作品である。

映画は最初、夏の日に川遊びをしたり、生家で古い蓄音機を見つけて夢中になる子供たちの姿をとらえながら、この地方の美しい自然を描き出していくのだが、やがてそこに、少年の思い出や、少年の母親の記憶の中にある父親のイメージなどが重ねられてゆく。フラッシュバックというか、現在時と同時並列的に並べられていく記憶のイメージがとにかく鮮烈だ。たとえば、少年の母親が少女だった頃、風来坊のような彼女の父親が去っていくのを見送る場面。彼女の長い影が落ちる一本道を、父親が遠くの点になって消えるまでフィックスでとらえ続けたショットの何という美しさだろう。

子供たちが山に遊びに行って帰ってくると、村では数百年がたってしまっていて、だれも彼らのことを覚えていないというあたりは、まるで『ペドロ・パラモ』を思わせるが、それもしばらくするとまた普通の時間に戻っていたりする。記憶と現在、過去と未来が様々に交差する。流れている時間の厚みが、とにかく半端ないのだ。アントニオ・レイスは映画監督である前に、詩人でもあり、民俗学者であったともいうが、そんな彼の背景がこの映画をジャン・ルーシュの作品に近づけもしている。ひょっとしたら、小川紳介が『1000年刻みの日時計』でさえできなかったことをこの映画はやってしまってるのではないか。そんなことさえ考えさせる映画だ。

最後のほうで村人の一人が、都なんて話には聞くけど本当に存在するのか、法とはいったい何か、などと語り始めるくだりなど、まるでボルヘスのようである。そして、宵闇の中を見えない列車が白い煙をもくもくと上げながら走るラストの魔術的イメージ。様々な映画作家がいままで列車をフィルムに収めてきたが、誰がこんな列車の撮り方をしたことがあったろうか。ラテン・アメリカの文学について時々使われる「魔術的リアリズム」という言葉はこの映画のためにあるのかもしれない(キャメラは『白い町で』や『メーヌ・オセアン』を撮影したアカシオ・デ・アルメイダ)。次のポルトガル映画祭では『ジャイメ』の上映を切に願う。)


オリヴェイラモンテイロペドロ・コスタについてはすでにいろいろ書かれているし、わたしも何度か書いているので、ここでは触れないことにする。今回上映されるモンテイロ作品のうちで、『黄色い家の記憶』と『神の結婚』は、モンテイロ自身が演じたジョアン・ド・デウスを主人公とする三部作の1作目と3作目だ。一本一本で一応完結はしているが、順番に見ることで分かってくることも多い(ルイス・ミゲル・シントラの役割など)。できれば『黄色い家の記憶』から見た方がいい。ちなみに、『神の結婚』には、お菓子職人か何かの役でジャン・ドゥーシェが一瞬登場する。



残念ながら、テレサ・ヴィラヴェルデの『トランス』と、ミゲル・ゴメスの『私たちの好きな八月』はデジタル上映だった(『神の結婚』はかなりきれいな画面だったが、これもデジタル上映だったと思う)。

『トランス』は、悪夢のような酩酊感がオリヴィエ・アサイヤスの『デーモンラヴァー』を思わせないでもない、一種のロードムーヴィーであり、ホラーでもあるような作品だ。背景となっているのはヨーロッパにおける人身売買だが、描かれているのは実存の闇とでもいうべきものである。ただ、かなり刺激の強い場面が連続するので、そのあたりは覚悟してみてほしい。

『私の好きな八月』は、製作資金が不足する中、撮影そのものをドキュメンタリー化して作品の中に取り込んでいく形で作られていったユニークな作品だ(似たような展開をするヴェンダースの『ことの次第』もポルトガルで撮られたのだった)。一見投げやりに作られているようでいて、最後にはすべてのピースが絡み合ってくるような、そんな作りになっている。ちなみに、監督のミゲル・ゴメスは青山真治と親交があるらしい。

両作品ともなかなかの佳作である。