明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。





























このサイトはPC用に最適化されています。スマホでご覧の場合は、記事の末尾から下にメニューが表示されます。


---
評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ジャン=マリー・ストローブ、ダニエル・ユイレ、ジョン・フォードを語る



境界線
──ジャン=マリー・ストローブダニエル・ユイレジョン・フォードを語る



──『歴史の授業』を上映後の議論を思い出します。その中で、この作品とホークスの『三つ数えろ』が比較されました。どちらの作品においても、調査をする人物が、もつれた糸をほどき、人々と出会い、彼らに質問をする。これはつまり、あなたの映画ではフォードよりもホークスの存在のほうが、明白で明らかだということです。同意なさいますか?

 ジャン=マリー・ストローブ(以下、JMS):『歴史の授業』は反ホークス的映画だ。クレーンによる細分化された上下移動は、ホークスとは何の関係もない。われわれが撮った映画の中にホークス的作品があるとするなら、それは『オトン』だ。われわれの映画がフォード的かどうかということについては、答えない。それはうぬぼれがすぎる。そんな役目はチミノやコッポラに任せるよ。フォードと自分を比べるなんてごめんだ。


──別の訊き方をしましょう。フォードの映画のどんなところがお好きですか。

JMS:そもそもの始まりははっきりしている。最初に、1965年、スイスでの発見があった。その頃、フランスには帰れないでいた。1年の禁固刑を宣告され、ジュネーブで働く数学者の友人の家に住ませてもらっていた。そこで『妥協せざる人々』の字幕をつけていたんだ。都心から遠く離れた郊外で『アパッチ砦』を見たんだが、目の覚めるような発見だった。当時、誰もがこう言っていた。この映画はすばらしいが、ハッピーエンドで終わっているのが残念だ、と(サドゥールを読み返すといい)。ところが、映画を見てわかったのは、この結末は、残りの部分よりもずっと残酷だということだ。このハッピーエンドで、ジョン・ウェインは記者会見をする。彼の背後には、映画に描かれる戦いを美化して描いた絵が掛かっている。記者たちがウェインに尋ねる。この絵に描かれているのは真実か、カスターは人が言うように偉大な人物だったのか。『殺人狂時代』で、「陪審員のみなさん、この怪物をごらんになってください」という検事の言葉に、チャップリンが思わず後ろを振り返って、その怪物がいないかどうか確かめたように、ジョン・ウェインももうすこしでその英雄を探すところだ。ジョン・ウェインは振り返って後ろの絵を見、躊躇したあとで、立ち上がり、言う。「そうです。まさにこの絵の通りでした。」ウェインは部屋からみんなを閉め出し、カスターそっくりの仕方で軍帽をかぶる*1。そのときわかったんだ。フォードは一般に信じられれている人物とは全然違うし、人から聞いていたイメージとはかけ離れている、と。あのジョン・ウェインでさえ、あんたらが見ている絵は嘘っぱちだ、などと言いはしないんだ。
 それから、この数年後、『騎兵隊』という見事な映画のことを知った。南北戦争の状況について撮られた唯一の作品だ。その次に、フォードのある作品を見た。もしも自分ひとりのためのシネマテークを作るとしたら、真っ先にそこに入れたいような映画だ。「南北戦争」という10分ぐらいの短編で、『西部開拓史』のエピソードのひとつになっている。フォードは、マイルストンやアンソニー・マン、とりわけキューブリックのそれのような滑稽な戦争映画を撮らなかったただ一人の監督だ。『アパッチ砦』のラストで、ジョン・ウェインが窓越しに騎兵隊を見やるとき、彼らはまた殺戮の場に向かって出発するのだと、観客は思う。フォードが戦争を撮るとき、サディスティックな場面はひとつとしてないし、そこには自己満足などみじんもない。誰かがだれかをサーベルで串刺しにするようなシーンなどどこにも出てこないだろう。軍隊という場所(theatre)に魅せられているときも、フォードはそれをバレエに変えてしまう。これは全く別のことだよ。イデオロギーに魅了されているわけではないんだ。フォード作品におけるリンチの場面についても同じことが言える。ラングの『激怒』を除けば、ウェルマンの『牛泥棒』のような映画は、どれもこれもリンチを描いた胸のむかつくような作品ばかりだ。


フォードの作品には、ラングの作品同様に、群衆や、集団に対する恐怖があります。

ダニエル・ユイレ(以下、DH):それは群衆に対する恐怖ではありません。途方もないもの、不合理なもの、火薬に火をつける火花に対する恐怖なのです。にもかかわらず、フォードの場合、これらの人たちは全くの怪物というわけではありません。宿命など存在せず、いつもだれかが現れて、彼らを動かすことになるのです。


『太陽は光り輝く』の人々は、最後にはプリースト判事に投票するようになります。

JMS:『荒野の女たち』のヒロインは匪賊たちを動かし、彼らをぐらつかせる。フォードの映画で動かないものがたった一つ。それは社会機構だ。これはどうしようもない。そこにあるのは集団ではなく、社会的階層であり、上から下まですべてを堕落させる金だ。支配的階層のなんたるかについて、『世界は動く』ほど突き詰めた映画はない。この映画で、男がうわごとのように言う。「力というのは、金のことなんだ」。そしてその言葉に、神父が、悪魔を崇拝するならすべては君のものだと答える。男の妻は、経済恐慌に打ちのめされて、牛たちのいる田舎に戻るのだが、それでもやはり、夫らの言っていることには一理あると思うのだ。農民たちを堕落させる金については、『香も高きケンタッキー』が描いている。この映画で、農民たちは、買った馬に日曜日はえさをやらない。月曜日は馬を休ませる日だからだ。それでも、彼らの中の二人の心がぐらついて動く。フォードの映画にはいつもこういうことが起きるんだ。


それは『馬上の二人』のジェームス・スチュアートにも言えますね。最初は、金のことしか考えていないひどい男なのですが、驚くべきことに、軍隊の人種差別を受けている若い「インディアン女性」を助けようとします。

DH:それというのも、フォードの映画には、ピューリタニズムやパリサイ主義はみじんも存在しないからです。善人が下劣きわまりないことをすることもあれば、悪人がこの上ない善行を行う場合もあるのです。

JMS:フォードは、社会の境界線について誰よりも敏感だった映画作家だ。ブレヒトの作品以上に、フォードの映画は社会の境界線を明確に描いている。たとえば『Sea Beneath』には、社会の驚くべき縮図がある。フォードの晩年の作品を見れば、アルジェリアや他の植民地で何が起きているかを、この問題をことさら描いた映画よりも、ずっとよく理解できた。フォードほどインディアンにシンパシーを抱いていた人間はいなかった。人種差別主義者に『シャイアン』のような映画を撮ることなんてできない。

DH:インディアンとともに出現する不合理なものとは、同化することのできない何かなのです。


フォード作品には共同体への愛があるといわれますが、フォードは同時に、ウィル・ロジャースもので、共同体から閉め出された人たちを描いてもいます。

DH:それはフォードのカトリシズムからきています。キリストの物語はそれらの作品から遠くありません。

JMS:それは『メアリー・オブ・スコットランド』の物語でもあるし、『男の敵』のそれでもある。この2作の人物には本質的な違いはない。そこに描かれているのは同じ歯車装置なんだ。フォードが唯一無二なのは、彼が撮るものが並外れた幅と多様性を持っているからだ。重要なのは、フォードにはスタイルがないということだ。『3悪人』とウィル・ロジャースもの──とりわけわれわれのお気に入りの作品、ネオリアリズムなんて吹き飛ばしてしまう見事な作品、『ドクター・ブル』──との間に、どんな関係がある? 『ドクター・ブル』を見ると、当時、リヴェットとトリュフォーが、ネオリアリズムの映画は滑稽だと言っていたわけがわかる。この映画に描かれる小さな田舎町の的確な描写を見ればいい。列車が到着し、郵便物がプラットホームに投げおろされ、若い女性が郵便局に行く。映画が1時間ほどたったところでやっと観客は、これがどういうことかを理解するんだ。物語の配置の仕方すべてが、まったくもってドキュメンタリー的だ。
 フォードの映画においては、奇妙きてれつな人物たちの描写の仕方にも、社会的な観点からすれば、ある鋭さがある。『香も高きケンタッキー』と『Lightnin'』──ともに見事な作品だが──このふたつを見直してみて、フォードのことでずっと悩んでいた疑問がやっと解けた。物語、フィクション、語りは、映画が進むにつれてどんどん豊かになってゆくが、それでもフォードがまず、物語の観点からいうと、貧しくて、語りなどなくてもいいような、極端にドキュメンタリー的なやり方によって映画を作り始めることにかわりはないんだ。ここでも『ドクター・ブル』を例に挙げることができる。今いったことは『香も高きケンタッキー』を見ればわかることだ。この映画で、観客はどれだけの時間、馬を見るだろう。この馬は字幕で言葉をしゃべるのだからなおさら信じがたいことだ。1954年に、『アンナ=マグダレーナ・バッハの年代記』の企画についてアドヴァイスを求めにブレッソンに会いに行った時、彼が言ったことを思い出す。しばらく議論したあとで、ブレッソンがこういった。「イメージを作るのは言葉だ」。ダニエルはそれに不満だった。あの馬たちはそこにいて、字幕とは別の物語を語っているんだ。

DH:フォードがショットで語るのは、字幕の中にある物語ではありません。ショットによって、観客は人物たちの間で何が起きているかを理解するのです。

JMS:溝口を字幕なしで見るよりも、フォードのサイレント映画チェコ語字幕で見るほうが、内容をよく理解できる。フォードの映画は、馬が考えていることを字幕で語るのだが、それはイメージと平行するもう一つの物語なんだ。

DH:フォードは馬に、字幕と対応する身振りをさせたりしません。フォードと彼の馬たち、これは『モーゼとアロン』の奇跡のシーンで使われたテクニックです。あれはたしかにフォード的でした。

JMS:今のは俺が言ったんじゃないよ(笑い。間)。フォードは、われわれが蛇を撮ったように、馬を撮っている。

DH:フォードはキャメラを動かすのが嫌いでしたが、この映画では、馬のためにキャメラをよく動かしています。われわれも、蛇のせいで、キャメラを動かさざるを得ませんでした。

JMS:地面を横切る蛇をフィックス・ショットで撮る予定だったが、このショットは映画には入っていない。キャメラを絶えず動かしながら、3度も、フィルムを300メートル回したんだ。フォードの馬たちについても、同じことが言える。最初は語りなどなく、ドキュメンタリー的なものがあるだけだ。こうやって映画は始まる。やがて、語りはじょじょに豊かになってゆくが、それがドキュメンタリー的部分を殺したり、吸い尽くすことは決してない。フォードにおいて、フィクションは決してもったいぶって自己を主張せず、寄生虫のように映画という樹をむしばんだり、酸のようにすべてを溶かしたり、目に入ったゴミのように視界を遮ったりしない。フォードのフィクションは、子供たちに読んで聞かせる物語のレベルに合わせられていながら、並外れて豊かで、現実の重みに富んでいるんだ。

DH:『モーゼとアロン』を撮っている間、われわれが自分に問いかけていた問題のすべて、つまりは、イメージが想像力の働きを妨げてはならないということ、それこそがフォードの映画なのです。そもそものはじめから、フォードは呼吸をするようにそれをやっている。フォードが見せ、語るものはすべて、想像力や現実を飽和させることがありません。これはとてつもないことなのです。



(「カイエ・デュ・シネマ ジョン・フォード特集号」(1990年発行)に収録されたインタビュー、"La ligne de démarcation" の全文を訳出。『香も高きケンタッキー』だけは未見なので、内容を確認できなかった。『世界は動く』『ドクター・ブル』『Sea Beneath』は上の『Ford at Fox』BOX に収録されている。)

*1:ストローブの記憶はかなり不確かで、たとえば、この場面で記者たちが話題にするのは、壁に掛かっている絵とは別の絵である。