明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

フィリピンの光と影〜ブリランテ・メンドーサの映画についての覚書


ブリランテ・メンドーサはフィリピンの映画監督で、2005年以来現在にいたるまで9本の映画を撮っている。8作目の『Kinatay』が第62回カンヌ映画祭で監督賞を受賞し、最新作『Lola』も第6回ドバイ国際映画祭で作品賞を受賞するなど、ますます国際的に名を知られつつある映画作家だ。しかし、日本では、残念ながら今のところ、映画祭などの特別上映を別にすると、公開された作品はない。わたしは彼の9本の作品のうち4本を見ただけである。以下に、簡単に感想を記してみる。

『Kinatay』(2009)


「kinatay」はフィリピン語で「虐殺」を意味する。『Kinatay』は、殺害現場に居合わせてしまった主人公の悪夢のような一夜を、身も凍るほどリアルに描ききった作品だ。もっとも、見ていて決して愉快ではないこの映画にたいする観客の反応は賛否両論で、たとえば、興行成績請け合い人とでもいうべき批評家ロジャー・エバート*1は、「ヴィンセント・ギャロに謝りたい。『ブラウン・バニー』はカンヌで上映された最低の作品だといったが、あれは間違いだった。最低なのはこの映画だ」といって激しく断罪した。

『Kinatay』は、警官になりたての主人公の青年が結婚するところから始まる。明るい陽光の中、それこそ明るい未来が暗示されるのだが、それもつかの間のことで、主人公にはこのあと地獄のような夜が待っているのだ。新婚生活のためにこれまで以上に金が必要になった青年は、知人(たぶん彼も警官)の誘いで、気軽にある仕事を引き受ける。いわれるままに、数人の男たちの乗るヴァンにその知人と乗り込むと、車はとあるナイトクラブに向かう。男たちはそこで働いている娼婦らしき女をむりやり連れ出して車に押し込む。どうやら女はヤクの金か何かを滞納していたらしく、車の中でこっぴどく痛めつけられたあげく、マニラから遠く離れたどこか人気のない廃屋の地下室に連れてこられる。そこで女はレイプされ、殺害され、さらには身体をばらばらにされて袋詰めにされてしまう。車の窓から一瞬、“Jesus the way, the truth and the life”と書かれたネオンサインが目に入るシーンがある。この場面のアイロニーはいささかわざとらしくはあるのだが、フィリピンがカトリックの国であることは覚えておいていいだろう。

まさかこんな事態になるとは思っていなかった青年だが、逃げ出すこともできず、ずるずると流れに身をまかせるうちに気がつくと自分も殺人の片棒を担いでいる。映画が終わる頃には、彼はすっかり別人になっているだろう。すべてはこの青年の視点から描かれている。なにげに彼に付き従って映画を見ていた観客は、いつの間にか悪夢のような殺害現場に立ち会わされてしまうという仕組みだ。映画はそれをドキュメンタリーでも撮るようになんのドラマティックな強弱を与えることもなく淡々と描いてゆく。描かれる内容は非常に扇情的だが、それを映しだすカメラはどこまでも即物的である。照明は最低限に抑えられ、夜の場面では時として誰がだれかも判然としない。車で女を連れ出すところあたりから台詞も極端に少なくなり、殺人場面も短い命令の言葉以外はほとんど無言だ。

死体をばらばらにすると、彼らは帰りの車の中から切断された女の死体が入った袋を道ばたのゴミ箱に次々と無造作に投げ捨ててゆく。すでに空は白みはじめている。何事もなかったかのようにレストランにはいって朝食をとる彼らが不気味である。最初はてっきりギャングの一味か何かと思っていた彼らだが、恐ろしいことに、実は、全員がどうやら警察官らしいのだ。

ブリランテ・メンドーサの映画には、いつもフィリピンの闇が映しだされている。登場人物たちのだれもが、腐敗した泥沼のような世界に、知ってか知らずかどっぷりとつかっていて、どうにも抜け出せない。この映画の主人公の青年も決して最初は無垢だったわけではなく、たいして自覚するでもなく腐敗した世界に足を踏み入れている。殺人に巻き込まれたことは、そのことをただ深く自覚させるきっかけになったにすぎないとも言える。モラルの不在を描くメンドーサの映画はいつもモラリスティックだ。


『Tirador』(2007)


マニラのスラム街キアポを舞台にしたこの映画にも、フィリピン社会の影の部分が描かれる。もっとも、この映画に登場する犯罪者たちは、『Kinatay』の殺人者たちとは大違いで、どいつもこいつもせこい奴らばかりだ。DVDプレーヤをまるごと袋にいれて万引きしようとして見つかり、泣き落としでなんとか許してもらって店を出たとたん、店先に並べてあった別の商品をちゃっかり盗んでいく女。かつあげして奪った金品の一部をくすねて、それを泥棒仲間のせいにする奴。スリ、売春、DVD海賊版販売、詐欺……、だれも彼もが生きるために何らかの悪に手を染めている。

フィリピンは大統領選のさなかで、街の至るところ候補者のポスターだらけだ。なかには社会から犯罪を一掃することを高らかに宣言している候補者もいるのだが、そんなお高い目標を掲げた政治家が、裏では金で票を買っていたりする。ここでは政治もことごとく腐敗しているのだ。映画は最後に、金ほしさに投票所に並ぶ人々の姿を映しだして終わる。

手持ちカメラを多用したスタイルはこの監督の常なのだが、『Kinatay』の重苦しい沈黙とは対照的に、この映画では最初から最後まで、喧噪のなか様々な登場人物たちが軽快なリズムで現れてはまた消えていく。だれが主人公というわけではなく、この街全体が主人公であるとでもいえばいいか。

『Kinatay』同様、なんの希望も見あたらない映画だが、生き馬の目を抜くようにして生きるものたちからわき上がってくるエネルギーはある意味ポジティヴで、こんな内容でもブリランテ・メンドーサの映画の中ではこれがいちばん後味がよかった。彼の作品ではいちばん好きな一本かもしれない。


『Manoro』(2006)


これが3本目に見たブリランテ・メンドーサ作品なのだが、正直言って彼にこんな映画が撮れるとは思っていなかった。シンプルで、静かで、美しい作品である。

映画の舞台となるのは、フィリピンに住むネグリト、アエタ族の山村。折しも大統領選の期日が間近に迫っているところだ。アエタ族の人々は都会の喧噪から遠く離れた場所で非近代的な生活をつづけてきたのだが、近くの火山の噴火によってふもとに近い場所に住居を移すことになる。それにともなって行政区分が変わったことが原因ということなのか、彼らは生まれて初めて大統領選に参加する。しかし、村の人間はいままで投票などしたことがないどころか、だれひとり読み書きができない。そこで、学校を卒業したばかりの村の女性ジョナリンが彼らに読み書きを教える任務を任されることになる……。

サミラ・マフマルバフの『ブラックボード』、あるいはチェン・カイコーの『子供たちの王様』といった映画と共通するところも少なくない物語である。しかし、映画は思わぬ方向に横滑りしていき、予想していたイメージに収まろうとしない。村人に読み書きを教える仕事もそこそこに、ヒロインは狩りに出かけて何日も帰ってこない祖父を捜しに、父親とともに出発する。彼にも投票に参加してもらわなければならないのだ。何もない広大な風景のなかを歩いてゆく二つの人影をとらえたロングショットが重ねられてゆく。ブリランテ・メンドーサの映画ではあまり見たことのない静謐な時間が流れる瞬間だ。結局、選挙が終わってしまったあとになって、祖父は狩りの獲物である野豚を背中にかついで帰ってくる。映画は、村人たちが狩りの成功を祝って、その野豚を焼いて食べる宴の場面で終わっている。

『Tirador』でもフィリピンの腐敗した大統領選が描かれていた。この映画でも、だれに投票しているかもわからずに、覚えたばかりの名前を投票用紙に書き込む村人たちの姿にアイロニーを見ることもできるだろう。無知はなかなか無くならない。しかしそんなメッセージと同時に、文明に毒されていない素朴な村人たちに対する優しさのようなものも感じられる。わたしが見たメンドーサの映画の中ではめずらしく、社会の暗部へ向けたシニカルな視線が希薄な映画だった。


『Serbis』(2008)


この映画の舞台となるのは、ある一家の経営するポルノ映画館だ。だが、"FAMILY" という映画館の名前が皮肉に思えてくるほど、この家族はひとりひとりが問題を抱えている。母親は女を作って出て行った父親と係争中だし、軽薄な息子はガールフレンドが妊娠したことを知ってうろたえているところ。いとこは映写室に娼婦を引っ張り込んで快楽にふけっている。唯一まともに見えていた長女も、人妻の身でありながらどうやら若い男に心を奪われているらしい。おまけに映画館は経営が悪化して火の車の状態だ。それに映画館といってもだれも映画など見ていない。ここはホモやドラッグ・クイーンたちの出会いの場所になってしまっているのだ。

限定された閉鎖空間を描いたブリランテ・メンドーサ作品は、わたしが見たなかではこれが初めてである。しかし、『Tirador』のスラム街がそうだったように、この映画館もフィリピン社会の縮図であるという点では、変わりない。

映画は、男娼らしき男が客と交渉している場面で突然フィルムが真ん中から燃えだし、その穴が広がっていくところで終わっている。これは映画にすぎないということなのか。あるいは、この映画を見ているわれわれも、ポルノ映画を見ているのぞき見趣味の観客たちと同じだということなのか。

ツァイ・ミンリャンの『楽日』を思わせるテーマであるが、むしろメンドーサの作品のなかではアルトマンにもっとも近づいた映画かもしれない。


*1:わたしの認識では、ロジャー・エバートは、あえて比較するなら、日本のおすぎのような批評家だ。アメリカでもっとも有名な映画評論家といってよく、大変な影響力を持っている。