明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ラッセル・ラウズ『The Thief』


ラッセル・ラウズ『The Thief』(52)


ラッセル・ラウズには、『必殺の一弾』のような忘れがたい作品もあるにはあるが、どちらかというと小物と言っていい監督だと思う。しかし、ときおり妙に野心的なことを試みたりするので、無視できない。その中でもとりわけ風変わりな作品がこの『The Thief』である。タイトルは「泥棒」という意味だが、ここで盗まれるのは金塊でも宝石でもなく、米国の原子力に関する情報だ。『The Thief』は、50年代のアメリカで作られたスパイ映画である。この時代、冷戦を背景に少なからぬ数のスパイものが撮られた。これもその中の1本であるが、この映画には他のスパイ映画にはないユニークな特徴がある。全編を通してセリフが1つもないのだ。

レイ・ミランド演じる原子力専門の科学者がどうやらソ連に情報を売っているらしい。金のために手を染めてしまったが、いまではもうこんなことはやめたいと思っている……。主人公がおかれたそんな状況を、映画はセリフをまったく使わずに明らかにしていく。

画面に登場する人物は一言も言葉を発することがない。電話をかけた相手も、電話を受けた相手も、ただ無言で受話器を持ち上げるだけだ。公衆電話も、スパイの仲間がマイクロフィルムの受け渡しをする中継場所として利用されるにすぎない。この映画では電話のコミュニケーション機能はまったく無視されている。だがその一方で、くり返される無言の電話のやりとりは、主人公が追い込まれた閉塞的状況をきわだたせていく。電話は映画的には見事に機能しているのだ。

この映画に存在する言葉は、ビルの名前や、オフィスの壁に飾られた科学者の業績をたたえるパネルの文章といったわずかばかりの書かれた文字だけである。ソ連の連絡係がレイ・ミランドに手渡す組織からの指令が書かれたメモも、毎回カメラに映しだされることなく焼却されてしまう。無言で連絡を取り合う諜報員たちがいつも情報の交換場所として使っているのが、言葉の森である図書館だというのが、何とも皮肉だ。

セリフを一切なくすという手法は、ともすると強引な印象を与えかねないが、スパイの秘密主義がその口実を与え、正当化している。しかし、それ以上に、苦悶するレイ・ミランド神経症的と呼びたくなるような演技が、言葉の不在を納得させる(ある意味、『失われた週末』のアルコール中毒症患者の延長上にある演技だ)。

有名な映画らしいのだが、実をいうと、つい最近までその存在を知らなかった。なんでも知っているつもりになっていたが、まだまだ未知の作品は存在する。映画は奥が深い。