ベルナール・ケイザンヌ&ジョルジュ・ペレック『眠る男』(Un homme qui dort, 74) ★★★
ジョルジュ・ペレックは、アルファベットの「e」を一切使わないフランス語で書かれた小説『煙滅』(恐ろしいことに、日本語訳が存在する)など、アクロバティックなエクリチュールで知られるフランスの小説家である。ペレックがそうした言語遊戯をはじめるのは、1967年に文学グループ「ウリポ」に加わってからで、それ以前にはいくつかの半自伝的ともいえる小説を書いていた。映画『眠る男』は、かれがウリポにおける言語遊戯を本格的にはじめる直前の時期に書いた同名小説を、ベルナール・ケイザンヌとともに映画化したものである。
作家が撮った映画ということもあり、何となく敬遠していたのだが、今回初めて見て、思った以上に素晴らしい出来だったので驚いた。
パリの屋根裏部屋に住む学生が、生から離脱し、世界に無関心になることを決意して、自己に閉じこもってゆくさまが描かれる。男は一言も喋らず、聞こえてくるのは、二人称で画面外から語りかける女性の声のみ。イメージと声がときに見せる微妙なズレが、見るものに、パリをさまよい歩きながら、同時に、部屋から一歩も出ていないような印象を与える。良くも悪くも、テクストの強度によって成立している映画だ。
パリはきれいですねと言う人がいると、いや、薄汚い街ですよと反射的に答えてしまうのだが、こういう映画を見ると、やっぱりパリは絵になる。しかし、執拗に列挙をつづけてゆく、この映画の偏執的で即物的なテキストには、ロマンティスムのかけらもない。ポンピドゥー時代の巴里の憂鬱(?) この映画の第二の主人公ともいうべきパリの街をとらえたモノクロのイメージが素晴らしい。
(撮影を担当しているベルナール・ジツェルマンは、長編映画では、この作品がほぼデビュー作。このあと、アラン・タネールや、少なからぬシャブロル作品とかかわってゆくことになる。)
この映画の公開時、ジョルジュ・フランジュは、「夢幻的映画の例外的に成功した作品」と絶賛した。催眠術のような幻惑的ナレーションや、トラヴェリング撮影など、レネの初期作品を思い出させる部分が多い映画だが、いわれてみれば、フランジュの『白い少女』などと通じるところもある。
後半にしたがって、青年の妄想ともいうべきイメージ(廃墟で音もなく燃え上がる洗面台など)があふれだし、画面は露出過多気味に白々として、現実感を失ってゆく。
しかし、映画は最後の最後に希望のようなものを残す。「何も待つものがなくなるまで待ち続ける」だけだった青年は、ほんのすこしだけ世界への関心を取り戻したように見える。映画は次のように語る声とともに終わる。
「きみはもはや近づきがたく、澄んで透明な存在ではない。きみは恐れている。きみは待っている。きみはクリシー広場で、雨が止むのを待っている」