アメリカにおける「作家主義」の原点でありバイブルでもある『The American Cinema』において、「デイヴィッド・ミラーがどうして賞賛されるようになったのかは、アングラ批評の解けない謎の一つである」とアンドリュー・サリスに評言されている映画監督デイヴィッド・ミラーが、偉大な映画作家からほど遠い存在であることはたしかだ。それでも、『突然の恐怖』(と、『脱獄』)は忘れがたい映画である。
実は、若きフランソワ・トリュフォーが「カイエ・デュ・シネマ」に初めて書いた本格的な批評は、この『突然の恐怖』をめぐるものだった。「この映画には、物語の進行に不必要なショットはただの一つもない。われわれを魅了し、これは映画の演出における傑作であると思わせないようなショットも、ただの一つもない」、とトリュフォーは書いている。(フランス語の原文が見あたらなかったので、英語からの重訳。"filmmaking" は "mise en scene" の英訳だろうと解釈した。)
この頃のかれが、多少作品をダシにしてまでも、自分の考える映画原理、つまりは、「何が映画であり、何が映画でないか」を打ち出そうと躍起になっていたということを差し引いたとしても(実際、ここでもオーランシュ=ボストがやり玉に挙がってるのだが)、これはかなりの絶賛ぶりだ。
男優レスター(ジャック・パランス)は、売れっ子戯曲作家マイラ(ジョーン・クローフォード)に、彼女の新作戯曲から役を降ろされ、恨みに思っていたが、彼女と同じ列車に偶然乗り合わせたことですっかり意気投合し、ついにはふたりは結婚することになる。しかしそこにレスターの昔の恋人アイリーン(グロリア・グレアム)が現れ、レスターは彼女にそそのかされて妻のマイラを殺そうと考えるようになる。
夫が愛人と共謀して妻の殺害を企てるというのはよくある話だが、この映画は、夫の殺意を知って、最初おびえるだけだったクローフォードが、彼らに先回りして夫を殺してしまおうと考えるという展開になっていくところが面白い。クローフォードが "damsel in distress" を演じた映画は少なからずあると思うが、やはり、おびえているだけの役は彼女にはあまり似合わない。もっとも、この映画が怖くなっていくのは、彼女がその殺人計画を実行に移す段になってからなのだが……。
劇作家であるマイラ(クローフォード)は、いつも脚本を書くときに利用しているテープレコーダーに偶然録音されていた会話によって、夫の殺意に気づく。今度は自分が夫を殺そうと考えるようになったときも、その殺人計画をまるで戯曲のように紙に書き出してゆく、というあたりの設定の利用の仕方も面白い。
実をいうと、さっきのトリュフォーの引用には、「二つの短いシーンをのぞいて」という但し書きがついている。一つは夢のシーン、もうひとつは、マイラ=クローフォードが殺人計画を立てるところで、その(成功した)光景がフラッシュ・フォワードで画面に現れるシーンだ。このふたつがトリュフォーには気に入らなかったらしい。しかし、こういうフラッシュ・フォワードの使い方は今どきだれもやらないから、わたしにはかえって新鮮だった。ここでわざわざ成功した光景を見せているから、いざ実行するときにはたぶんうまく行かないんだろうというサスペンスも高まる。その意味では、無駄なシーンではないと思うが、こういうあざといテクニックが「不純」なものに見えるのもよくわかる(そういえば、トリュフォーは『舞台恐怖症』の偽の回想シーンにもだめ出しを出していた)。
映画の中で、ジャック・パランス演じるレスターは、役者としての才能も、女優との相性もバッチリだったのに、顔がロマンチックじゃないということでマイラの戯曲からおろされてしまう。この映画のジャック・パランス自体が、最初はいかにもミスキャストに思えるから、これはなんとも皮肉である(なにしろ、観客は、ジョーン・クローフォードとジャック・パランスという、二人の怪物のラブシーンなどという気持ちの悪いものを見させられてしまうのだから)。しかし、逃げまどうクローフォードとそれを追い詰める野獣のようなジャック・パランスという、クライマックスの夜のサンフランシスコの場面を見れば、やはりこの役はジャック・パランスでなければならなかったのだと思う。
ちなにみ、この作品は、クローフォードにとって最初のRKO出演作だった。この直前、ワーナーで撮った最後の作品『This Woman Is Dangerous』に彼女は大変不満だったらしく、これまで出演した中でどの映画が一番嫌いだと訊かれた彼女が、『This Woman Is Dangerous』だと答えた話は有名。
KINO から出ている DVD (下写真)はあまり画質がよくない。真っ暗な夜の場面が多いだけに、非常に見づらいのが残念だ。