ジャン=クロード・ルソーとの対話
シリル・ネラ
[仏 capricci から出ているジャン=クロード・ルソー『閉ざされた谷』の DVD に同封されているブックレットのなかに、ルソーのインタビューが収められている(ちなみに、この DVD には、仏版 DVD としては珍しいことだが、なぜか日本語字幕がついている)。
先日、同志社でルソーの映画を何本か見、そのとき来日していたルソーの話を聞いたこともあり、なんとなく勢いで訳しはじめてしまった。いつものように気まぐれでやってるだけなので、面倒くさくなったら途中でやめるかもしれないが(その可能性は大いにある)、もう少しは続けるつもりである。
インタビューだが、訳文では口語的な表現にはあまりこだわらず訳してある。]
──『閉ざされた谷』の起源はどのようなものだったのですか。映画の出発点となる出来事があるとすればどのようなものでしょう。
出発点となる出来事があったかどうかはわからない。むしろ出発点は一つの場所だった。スーパー8のキャメラを持って、いつも決まったようにその場所に戻るのだ。そこに戻るのは、撮影するためというよりは、キャメラをアリバイに、ただ単にそこにいるためだった。つまり、そのときその場にいること、ときにはひとりで、多くはだれかと一緒にそこにいること、そこに私を連れてきて、ときにはそこに置き去りにしただれかと再会するために、そこにいること。アリバイでないとすれば、撮影することは、その場所に戻ってくるための口実だった。間隔は必ずしも短くなかったが、いつも決まったようにわたしはその場所に戻っていった。
場所、撮影
──その場所の何が気に入り、何があなたを引きつけたのですか。
わからない。空虚さ。たぶんその場所のもつ謎だ。何にもまして、どこにも通じていない一本の道がわたしを引きつけた。その道の先は絶壁になっていて、がけの下で湧き水が流れ出ていた。穴が開いていて、そこから水が噴き出しているのだ。いつもというわけじゃなくて、季節によって噴き出したり、噴き出さなかったりする。少し上り坂になっている道をけっこう長いあいだ歩くと、洞窟にたどり着く。道のりはそこで終わる。わたしにいわせると、泉へとつづく砂利道に出るずっと前から、道のりははじまっていたのだ。アヴィニヨンからフォンテーヌ・ド・ヴォクリューズの村へとつづく道をとったときに、わたしはすでにこの道程に踏みいっていた、道の途上にあったのだ。それはあたかも、村がそこに隠れていて、洞窟の暗闇のなかで閉ざされる谷の全体が、もっと大きな規模で、一つの洞窟をなしているかのようであり、わたしはそこに、ホテルからホテルへと渡り歩きながらしばしのあいだ滞在することになるのだった。そこに着くと同時に、わたしはすでに湧き水の穴のところにいた。たとえ、風景のなかに平板な絵に描かれたように一本の道が見え、洞窟のほとりにたどり着くには、まだその道をたどらねばならないとしても、わたしはすでにそこにいたのだ。閉ざされた谷とは、わたしにとって、距離が失われ、奥行き(perspective)も持たないが、底知れぬほど深い、そんな場所のことだった。ジョルジョーネの『嵐』の登場人物たちがソルグ河の岸辺に収まっていてもおかしくない、そんな一枚の絵*1。その場所にいることは、わたし自身がフレーム=額縁のなかに入っていくことだった。
──そして撮影をはじめられたのですね……。
部屋をいくつかとっていた。朝、湧き水のところに行き、夕方遅くに、また夜中にそこに行くためには、その部屋で眠らなければならなかった。二つのホテルに泊まっていたのだが、そのホテルは今はおそらくもう存在しないだろう。シャトー・ホテルとスルス・ホテルというホテルで、映画のなかで名前を言うのが聞こえる。シャトー・ホテルのほうは、小さな部屋で、宿泊費も安く、窓が一つだけあった。スルス・ホテルのほうは、部屋も大きく、窓も四つあり、立派な家具、黒い木製の大きなベッドといつも空っぽの小さなベッドがあった。ソルグ河のほとりにあるホテルだった。
──1本の映画を作ろうと思って撮影していたわけではないのですか?
いや、全然。だが、撮る必要があったのであり、その必要というのがけっこう複雑なものだった。その場所に戻らなければならない、その場所にいなければならないということだ。これは最初から欲望の問題だった。愛の欲望と混じりあった映画の欲望。その場所にいたいという欲望だ。
──それで、あなたは何をお撮りになっていたのですか。
その場所で見えていたものだ。部屋のなか、崖へとつづく道、崖の下、夏の数ヶ月のあいだ水を流し続ける泉。この時期は、洞窟のなかを進み、降りることができる。振り向くと、洞窟の暗い縁によって額縁をはめられた風景が見えるのだ。逆に、満潮のときは近づくことができず、ソルグ河は急流となって水しぶきを上げている。要するに、キャメラを持ってその場所にいて、なにかが見えるときにキャメラを三脚に乗せるわけだ。
──キャメラを構え、撮ろうという気になるのは、撮る必要に迫られてということですか?
なにかにぐっと掴まれてそうするのだ。これに先立つ作品も、これにつづく作品も、すべて同じだ。ぐっと掴まれるというのは、何かが見えるということだ。ただしそれは、見ているわけでもないのに何かが見えているという場合に、〈ヴィジョン〉という言葉が使われる意味においてだ。そのとき、見るとは、いわば視力を失うのと同じことを意味する。イメージを見るとはそういうことだ。意識しているわけでもないのに、視野のなかに、すでにイメージであったものがぽつんと浮かび上がる。イメージとは、まず何よりもフレームのことだ。思考が眼差しをかたどるわけではないので、たしかなことは何も言えないが、イメージというのは、キャメラを三脚に乗せる前にすでに見えているのであり、ファインダーをのぞくのはたんにそれを確かめるために過ぎないように思える。まずなにかにグッと掴まれるのであり、それがわれわれを立ち止まらせ、眼差しを固着させるのだ。眼差しはなにに固着するのか。描写したり、観察したり、詳しく説明したりすることができない、何ものでもないなにか(rien)にだ。詳しく説明しようとすれば、イメージを失うことになるだろう。あの地理学の本に書かれた美しい序文のことを考えているのだが、しかしながらあれは、テクストの一節として、映画にふさわしいものではなかった*2。そこでは観察が問題になっているのであって、この教科書の目的は明らかに、イメージを通して子供たちに教え、観察しようとする気持ちを芽生えさせることにある。しかし、観察するというのは、イメージに掴まえられることとは違う。観察というのは、なにかを掴まえることであって、なにかに掴まえられることではないのだ。ショットの持続は、この解釈しない眼差し、動機を持たない眼差し、〈ヴィジョンを見る〉という場合の、純粋なヴィジョンであるような眼差しと呼応している。それは例えば次のような当惑させる状況にちかいものだ。きみの同伴者が放心状態で、眼を泳がせている。それできみは彼に尋ねる。「なにを見てるんだい?」 その答えはいつも、「別になにも」だ。すると再びかれはその場に存在しはじめる、あたかもその質問がなにかの魔法を解いてしまったかのように。イメージを見るとはそういうことだ。つまり、それは放心状態=不在になることなのだ。
スーパー8
──あなたはスーパー8を使って撮影しています。スーパー8にはどういう制約があり、どういう点であなたの撮影の仕方を左右したのでしょうか。撮影できる時間のことを考えているのです。撮影するたびにフィルム一巻を使ってしまおうと思っていたのですか。
スーパー8で最初に映画を撮ったときから、フィルムの一巻は、一つの単位を形づくるべきだと考えていた。映画の詩法の一要素、一つの韻律であるべきだと。だから、撮影をはじめるときは、途中で中断する気などなく、1秒24コマで2分30秒撮影できるフィルム1巻分を最後まで使い切ってしまい、この時間の持続のなかで何が起きるのかを見ようと思っていた。それでしばしば確信したのは、フレームの正しさによって、イメージのなかで起きることの正しさがもたらされるということだった。その経験は今もつづいている。これしかないというフレームのなかで起きることは、たいていの場合適切なものだということだ。つまりは、時間の枠内でも同じ正確さが、持続における正しさが、確かめられるということだ。
──キャメラを回しはじめたときから、2分半のワンショットの長回し(plan-séquence)をしようと思っていたのですか。
たいていの場合それはわかりきったことで、問題にしたこともなかった。大事なのは、フィルムが許す時間のあいだこのヴィジョンを捉えることだったのだ。
──でも、この映画はワンショットの長回しだけでできているわけではありませんよね。
たしかに、なかには複数のテイク(prise)がはいっているリールもある。
──多くのテイクを含んでいる場合もたまにありますね。
複数のテイクであって、多くのテイクではない。
──いいえ、ときにはモンタージュが非常に……。
(相手をさえぎって)ああ、ついにその言葉を使ったな。この映画にはモンタージュなんてない。あれはモンタージュではなくて、テイクの連続なのだ。なるほど、リールのなかには複数のテイクを含んでいるものもある。だからといって、それがモンタージュ──この場合は、編集をともなわない、キャメラを使ったモンタージュということになるだろうが──になっているわけではない。そうではなくて、複数のテイクが意味するのは、別の何かが、普通は前のテイクとそう隔たっていない別の何かが見えたので、その別の何かを撮ったということに過ぎないのだ。
──別の何かを見る前に(そもそも、それは前なのでしょうか、それとも後なのでしょうか)、次のテイクをはじめるためには、今のテイクを中断しなければなりません。
それはそうだ。
──今のテイクを中断して次のテイクをはじめることをあなたに促すものは何なのでしょう?
もう見えなくなった、あるいは、もう十分見たからだ。眼差しには一定の持続時間がある。それで、テイクが中断される場合があったのだ。別のものを見ていたわけだ。そこでテイクを中断したのには、なにかの意図があったわけではない。それらのテイクには決まった使い道などなかったのだから、映画にふさわしい持続時間を考えてのことではなかった。あるいは、事情があって場所を移動しなければならなくなったというだけの場合もある。それとも、こう言ってしまってもいい。固定ショットで、眼差しが一定のあいだ持続すると、ついには両眼は閉じられる、あるいは別のものを見はじめる、と。
──スーパー8で撮っているあいだ、いつもファインダーに眼をあてていたのですか。
いや。
──するとまわりで起こっていることを見ることができたのですね。
そう。ときおりファインダーをのぞいて、キャメラが動いてフレームがずれないように注意した。フィルムに刻印されるイメージを確認し、それで満足するとまたファインダーから離れた。この充足した瞬間を、予期せぬ接近が中断することもある。どんな主題も正当化できない、いかなる使い道も決まっていないこうしたイメージに、わたしは満足すると同時に、警戒した。通行人がイメージになにかの影響をもたらすのではないかと考えるのだ。画面外に何が見えるかによって、それに期待するときもあれば、恐れを抱くときもある。それはリスクであり、ひょっとしたらチャンスかもしれない。これらの演出されていないテイクのなかに、ある光景が突然現れる。その光景はイメージをぶちこわしにしてしまうかもしれないし、逆にイメージをさらに素晴らしいものにしてくれるかもしれない。後になってからでしか、それはわからないだろう。イメージのなかにこうした予期せぬ推移の気配が見られるとき、わたしはキャメラから離れて、あらぬ方向を見る。恐れているものを見ないようにするためではなく、人がキャメラに目をとめて、撮影しているわたしに声をかけてくるのを避けるためだ。
──すると、だれかがキャメラに近づいてきて、画面の中に入ってしまうのじゃないかと思ったときに、制止したりすることなど絶対ないのですね。
ないね。ありえない。そんなことをすれば、画面のなかにその人物が、いわば自然に、入ってくることによって起きたかもしれないことよりも、ずっとひどい事態になりかねないからだ。
──キャメラのまわりの出来事、世界には、決して介入しないわけですね。
そんなことをして何の得があるのかがわからない。
──フレームのなかに何かが入ってくれば、テイクが確実に台なしになってしまう場合を考えてみましょう。
当然、台なしにならないようにしようとするだろう。その場合は、最初にわたしが見て、それを撮りたいと思わせたもののことを考えて、これではそれが台なしになってしまうと確信したら、その場に介入しようとするだろう。だが、もう一度言うが、そうやって介入することによって引き起こされた反応が、画面に何かが自然に入ってくるときの美しい動きを断ち切ってしまう危険があるということだ。
──どのように介入されるのですか。
スーパー8のキャメラは音を録音しないので、声をかけて呼び止めても危険はない(もっとも、すでに人物が画面のなかに映りこんでいたら別だが)。しかし、それはちょっと気が引けるし、わたしはいつもそれほど厚かましくなれるわけではない。それにやはりこう思うのだが、思いもかけず起きる出来事が妨げになって……。何を妨げるのだろう? 意図していたことをか? それでは意図があったことになるし……。もう一度いうと、それがイメージを台なしにしてしまうかもしれないということだ。もちろん、それを恐れて、回避することもできる。だがわたしが言いたかったのは、それは必ずしもいいことではないということだ。多くの場合、予期しなかったこと、事故のような出来事のなかにこそ、映画にとって最も貴重なものが生まれる。さてそこなのだが、その場に介入すれば、その貴重なものを極力避けることになってしまうかもしれないのだ。
サウンド
──キャメラが録音できないなら、音はどのように録音なさったのですか。
音の一部は、撮影とは別に、ただし現場で録音された。映画のなかには、その場所とは関係ない別のところで、場合によっては、現場を知る以前に録音された音も使われている。この映画の音は、イメージと似ていないにもかかわらず、非常にハッキリとイメージに定着していて、完璧に同期している。だがそれは、「同期」(synchronisme)という言葉の通常の意味においてではない。つまり、音がイメージと同時に録音され、言葉が唇の動きにぴったり合っている、ということではない。そういう意味ではないが、『閉ざされた谷』は完璧に同期しているのだ。
──そうはいっても、イメージを撮った直後に、その場の音が興味深かったから、音も録音したりすることもあったりしたのですか。
いいや。理由は簡単だよ。撮影に使うこの小さな機材は、重くもなく、それほど高価なものでもないが、それでも、キャメラも録音機材も、わたしにとって貴重なものだ。だから、キャメラと録音機材を同時に持ち歩いて、同時に失ってしまう危険を冒したくなかったのだ。
──キャメラと録音機材を同時に持ち歩いたことは一度もないのですか。
一度もない。スーパー8で作る映画がどんなものだろうと、キャメラと録音機材を同時に使ったことはない。夜、泉へと向かって歩きながら話す声が聞こえる場面では、音は、その場所で録音機材を使って録られたのだが、イメージは別撮りだ。それに、その夜は月が出ていて明るかったにしても、泉へと近づくにつれて暗さがしだいに増していったので、キャメラには何も写らなかっただろう。
──すると、音を録ろうと思ったときにだけ、録音機材を持っていったわけですね。
そうだ。フォンテーヌ・ド・ヴォクリューズには何度も旅したが、キャメラだけを持って、録音機材はおいていくこともあった。
──イメージについて語っておられた「なにかにグッと掴まれる」というのは、音についてもあるのですか。何が音を録ろうという気にさせるのですか。
音については、なにかにグッと掴まれるようなことはない。妙な言い方かもしれないが、なにかにグッと掴まれるというのは幾何学の領域に属することで、したがって視覚の問題なのだ。録音機材を常時携帯していたわけではないが、それでもかなり頻繁に持ち歩いていたので、この場所で〈他なるもの(l'Autre)〉と出会って経験したことをいろいろ録音した。レストランのテラスで食事しているときに、その日のことを話しながら録音することもあった。その日撮影したことや、その素材を関連づけたり組み合わせたりしたらどうなるか、などということをすでに考えながら話すのを録音したのだ。こういう会話ばかりが詰まっている録音カセットもあった。録音しておけば、やがて完成する映画のなかのしかるべき場所に収まるかもしれないなどと考えていたのだ。結局どれも全然使われなかったが。撮影されたのに使われなかったイメージよりも、録音されたのに使われなかった音声のほうがずっと多い。つまり、音というのは、イメージとうまく合わさったときにだけ、正しいものとなる(être justifié)ということだ。
──したがって、音はつねに二の次なのですね。
そう言ってもいい。しかし、同時に音はイメージを変化させるものでもある。
──はじめに一つの音から出発して、それにあった撮影フィルムをさがすといったことは、決してないのでしょうか。
ない。いつもはその逆のことが起きるように思える。『ヴェニスは存在しない』のような映画では音は非常に重要で、イメージ同様に映画を形づくっているのだが、それでもやはり、最初に来るのはイメージの方だ。このイメージに、音が後から加わってくる。もしも音に──たぶん言葉も含んでいる音に──優先権を与えなければならないならば、言葉から、言われたことから、出発することになり、それは本来映画がなすべき仕事とは正反対のものになってしまうだろう。つまり、なにか語るべきことがあり、最悪の場合、イメージはそうやって語られたことを絵解きするためだけに使われる、ということになってしまうだろう。しかし、事はそれとは正反対なのだ。イメージは何も語らないし、人を黙らせさえする。いわば言葉を奪ってしまうのだ。言葉は映画の原理にはなり得ない。
──しかし、言葉ではない音もあります。音の物質性はイメージを形づくります。
その通り。しかしその物質性は、音がイメージにふれるとき、イメージとの出会いによっていわば強化されるのだ。言葉について言うなら、イメージにふれて物質的な影響をそれに及ぼすことができるのは、言葉が語る内容ではなく、その息づかいであり、リズムであり、呼吸だ。物質のない芸術は存在しないということだ。この物質性から遠ざかるものはすべて、イメージを弱め、映画を妨げさえする危険がある。言葉が知的になりすぎると、人は見失ってしまう。言葉が聞こえるのは、それが歌われたときだけなのだ。