明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ラヤ・マーティン『Short Film About the Indio Nacional (or The Prolonged sorrow of the Filipinos)』


ラヤ・マーティン『Short Film About the Indio Nacional (or The Prolonged sorrow of the Filipinos)』

フィリピン映画の新鋭ラヤ・マーティンの監督第2作で、彼の長編デビュー作。この映画を撮ったとき、マーティンはわずか21歳だったが、映画は国際的な映画祭などで非常に高く評価され、彼の名を一躍有名にした。



岩山と崖に挟まれた細い山道を、その先にある真っ暗なトンネルに向かって歩いてゆくひとりの少年。この冒頭のモノクロ・サイレントで撮られたイメージは、映画を見進むにつれて実にシンボリックなものであったことがわかってくる。この暗いトンネルは、フィリピンが通り抜けなければならなかった長い長い隷属の歴史を象徴しているのである。

「次に来るのは、フィリピンの長い長い悲しみである」

映画はこの言葉と共に終わる。題名の通り1時間半にも満たないこの短い映画が描くのは、スペイン、アメリカ、日本といった海外諸国に代わる代わるに国土を支配され、ようやく独立を勝ち取ったあとも独裁者による圧政に苦しめられることになるフィリピンの長い長い隷属の歴史の始まりの瞬間であるといっていい。


この映画は基本的にモノクロ・サイレントなのだが、冒頭のトンネルのショットに続く短いエピソードだけがカラーのトーキーで撮られている。小屋のような貧しい家屋で眠れぬ夜を過ごしている女をキャメラが延々長回しでとらえ続け、耐え難いほどの長い時間(に思える)が流れたあとで、女の隣に寝ていた夫らしき人物がむくっと起き上がり、寝物語にある不思議な物語を女に語ってきかせる。それはざっとこんな話だ。

真夜中、家に帰ろうと道を急いでいた少年が、重たい荷物を担いだ怪しげな老人に出会う。実はその老人こそはフィリピンであり、彼が担いでいた重たい荷物はフィリピンが背負っている数々の苦悩なのである。

このDVキャメラで撮影されたカラーパートは、この映画で唯一現在を描いた部分であり、いわば、この映画全体のイントロにあたる。夫が語る物語の意味はあえて説明する必要はないだろう。女が眠れずにいるのは、フィリピンの抱える苦しみは現在もまだ続いていることを物語っている。

夫が物語を語り終えたところで、ようやくタイトルが現れ、以後映画は、モノクロ・サイレントのかたちで進んでゆく(映画監督以外にも多彩な顔を持つアーティスト、カーヴン(デ・ラ・クルス)による不穏なピアノ音楽が大きな効果を上げている)。そこで描かれるのは、19世紀末、スペインの植民地支配下にあったフィリピンの姿である。スペインによる圧政と、それに抗おうとする運動とが、いくつかのエピソードによって語られていく。教会の鳴鐘係の少年、死にかけの少女のために祈る家族、反植民地革命に加わる青年、フィリピンの神話的英雄を描いた芝居を演じる役者たち……。正直言って、スペインの歴史に詳しくないものには、描かれているものがなにを意味しているかを正確にすべて把握するのは難しいかもしれない。

たとえば、カティプネロス(あるいは、カティプーナン)と呼ばれる、反植民地をかかげて武力革命を目指す秘密組織(まず、この言葉自体が我々には聞き慣れない)のメンバーたちが、スペインの僧侶を川に投げ込むシーンで、「1,2,3百年!」とかけ声をかけるのは、スペインによる約3百年にわたる植民地支配をほのめかしているといった具合に、フィリピン人ならすぐにそれとわかるこうした部分でさえ、われわれにはすぐには理解できないだろう。

しかし、その一方で、一見どういう意味が隠されているのかわからない場面にいちばん心惹かれたりもする。たとえば、子供たちが日食を見ようとして野原でぽかーんと口を開けて空を見上げる場面の美しさ。


この映画に描かれる1890年代とは、まさしく映画が生まれた時代である。しかし、フランスやアメリカなどと違って植民地下にあったこの時代のフィリピンで撮られた映画は、いずれも外国人の手によるものであり、フィリピン人による最初の映画が作られるのはこれよりずっと後、1919年になってからだといわれている。つまり、この映画創生期に、フィリピン人によるフィリピンの映像は存在していなかったのである。ラヤ・マーティンがこの映画でやろうとしたことは、いわばこの欠けている映像を補おうとする試みであったと言っていいかもしれない。フィリピンに欠けていた国民的映画、存在し得なかったフィリピン版『国民の創世』を作り上げること。慎ましいタイトルとは裏腹に、この映画が目指していたものはずっと野心的だったと考えられる。それに完全に成功しているかどうかはわからないが、繰り返し見るたびに新しい発見のある、実に豊かな映画であることは間違いない。