キング・ヴィダー『Beyond the Forest』(49) ★★★
もう数十年前からずっと見たいと思っていながら、なかなか見る機会がなく、自分の中では幻の映画となっていたヴィダーの『Beyond the Forest』(『森の彼方に』)をやっと見ることができた。
キング・ヴィダーのフィルモグラフィーには、社会の規範をものともせずに、狂気にも似た愛、あるいはそれと表裏一体の激しい憎悪に突き動かされ、己の理念と欲望のみに従って激しい生を生きるものたちを描いた作品群がある。この、「ブラック・ヴィダー」あるいは「裏ヴィダー」とでもいうべき作品群は第二次大戦後に始まり、『白昼の決闘』や『ルビイ』など、『嵐が丘』にも似た激しい恋愛を描いた作品はもちろん、「規範を作るのは自分だ」と主張して社会と敵対してゆく建築家を描く『摩天楼』、土地を囲う柵を狂ったように嫌う「星のない男」(定めなき男)を描く『星のない男』などもこの系譜に含まれる。
『Beyond the Forest』は、ヴィダーが晩年に撮ったこれら残酷で激しい一連の作品のひとつであるだけでなく、その中でも最も陰鬱な作品であると言ってもいいかもしれない。
田舎町の善良で野心のない医者の妻(ベティ・デイヴィス)が、息が詰まるほど退屈な日常に嫌気がさし、贅沢と都会へのあこがれから金持ちの実業家と不倫を重ね、その果てに殺人にまで手を染め、さらには、夫の子供を流産させようとしたあげく、自滅してゆく。
まるで『ボヴァリー夫人』をフィルム・ノワールとして映画化したかのような物語である。しかし、この映画のデイヴィスには、エンマ・ボヴァリーにあるような人の共感を呼ぶ魅力はかけらもない。エンマがロマンス小説を読みふけって夢をふくらませていったように、この映画のデイヴィスは、最新流行の雑誌で目にした家具やファッションをそろえて日常生活を彩ろうと虚しく試みるが、そんな彼女の欲望は周囲の人間には理解できないし、そもそもそんな金もない。そこで彼女は、善良な医者の夫が貧しい患者たちからもらわないでいた治療費を無理やり取り立てて、ただただ自分のために服やアクセサリーを購入するのである。
これがきっかけで夫にも愛想を尽かされ、デイヴィスはあこがれのシカゴ(ボヴァリー夫人にとってのパリのような存在)に嬉々として愛人に会いにゆくのだが、別の恋人を見つけていた彼にすげなく拒否され、すごすごと故郷に舞い戻り、夫に許しを請う。しかし、しばらくしてその愛人が、やっぱりおまえしかいないといって彼女の元に返ってくると、まるで犬が尻尾を振るようにして、一瞬で夫を捨てて愛人の元に走るのである。
本人も後に述懐しているように、ヒロインを演じるにはいささか歳を取りすぎていたこの映画のデイヴィスの演技は、ほとんど自己パロディといってもいいほどのグロテスクさに達しており、この十数年後に撮られる『何がジェーンに起こったか?』の演技をすでに予告している。『白昼の決闘』や『ルビイ』の恋人たちや、『摩天楼』の建築家には、そのエゴティスムにもかかわらず、あるいはそれ故に強烈な魅力を放っていたものだが、ここでのデイヴィスはエゴティスムの負の側面だけを浮き彫りにしているように思える。もしも『Beyond the Forest』のデイヴィスに魅力があるとするならば、それは醜さというネガティヴな魅力であり、この映画の彼女はひたすらその醜さによって強烈な印象を残す。
この映画でひとつ興味深いのは、デイヴィスの身の回りの世話をするメイドの存在である。彼女は浅黒い顔をしたインディアンで、おそらくろくに教育を受けておらず、受け答えもがさつで品がなく、そのことでデイヴィスに絶えずいびられているのだが、そのたびに反抗的な目つきで彼女をにらみ返す。しかし、その一方で、このメイドの外見はデイヴィス演じるヒロインと驚くほど似ているのである。このメイドが原作の中でどのように描かれているのか知らないが、ヴィダーがこのメイドとデイヴィスのあいだに鏡像関係を持たせようとしていたことは間違いない。それは、階段の手すりの柵を使った構図の反復などにもはっきりと見て取れる。いくら着飾ろうと、彼女はこの醜いメイドと瓜二つなのだ……。
今でこそこの作品は、彼女の負の代表作としてカルト的な評価を得ているが、デイヴィスは撮影中に監督のヴィダーとたびたび衝突し、映画の出来にもまったく満足していなかったようである。ちなみに、この映画をきっかけに、ベティ・デイヴィスは、かねてより関係の悪化していた古巣ワーナーから離れることになる。これは彼女のワーナー最後の出演作である(そのはず)。
数あるヴィダー作品の中で、わたしはこの裏ヴィダーとも呼ぶべき一連の作品群にとりわけ惹かれるのだが、この『Beyond the Forest』には、正直言って、『摩天楼』や『ルビイ』ほどにはのめり込めなかった。それには、このベット・デイヴィスという女優がやはりどうしても好きになれないということが大きくかかわっているらしい。ただ、この映画のヒロインを彼女以外の女優が演じていたなら、それはまったく別の映画になっていたことも間違いない。良くも悪くもこれは彼女の映画なのである。
しかし、この映画に乗り切れなかった理由はそれだけではないかもしれない。見ていてどうもうまくいってないなと思えるところがいろいろあるのである。たとえば、ラスト近く、愛人とやり直すことになった矢先に、夫の子供を身ごもっていることを知った彼女が、医者である夫にそれとなく堕胎を迫る場面。その直後に、彼女がこっそり弁護士の事務所に入っていくところを夫に見つかり連れ戻される場面が続くのだが(ここでもメイドとヒロインの外見の相似が利用される)、ここのつながりがどうにもわかりにくいなと思っていたら、本当はそこで彼女が怪しげな堕胎医のところに行くシーンが入るはずだったのに検閲で削られてしまっていたらしいことが、あとで分かった。
実際、この映画は脚本段階から検閲と相当もめたらしく、完成した作品にもその痕跡はあちこちに見て取れる。見ていてどうもスッキリしないところがあったのだが、その中には検閲のせいで作品を変更せざるを得なかった部分が多数含まれていたのかもしれない。それにしても、デイヴィスが狩猟中の事故に見せかけて人を殺すシーンはあっさり許可しておきながら、堕胎をにおわすシーンには敏感に反応するとか、ブリーン・オフィスのやることはよく分からない。
とにもかくにも強烈な印象を残す作品であることは間違いない。
最後に、だれもが知っている話だと思うが一応書いておこう。劇作家エドワード・オールビーは、戯曲『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』(62) の中で、この映画のベティ・デイヴィスが発する "What's a dump" というセリフを引用している。これがこの映画の知名度を高めるのにどれほど貢献したかは知らないが、この映画の話になると必ず引き合いに出されるエピソードではある。
TCM 版の DVD(下)の画質は、最高とまでは言えないものの十分鑑賞に堪えうるものとなっており、DVDBeaver などの評判から察するに、未見のスペイン版よりはよほどクオリティの高いものになっていると思われる。