明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

トム・アンダーセン『Los Angeles Plays Itself』

トム・アンダーセン『Los Angeles Plays Itself』(2003)
★★★


きらびやかな夜景を捉えたモノクロの空撮画面に「LOS ANGELES」の文字が浮かび上がる。ナイトクラブで歌い終えたストリッパーが楽屋に戻ると、何者かが彼女に向けて発砲する。女は慌てて外に飛び出し、夜の舗道を人をかき分けながら必死で走るが、最後にはよろよろと車道に歩み出てそこで力尽きて倒れる。

『クリムゾン・キモノ』冒頭のいかにもサミュエル・フラーらしい荒々しいモンタージュをさらに間引きして編集した映像とともに、この映画は始まる。フラー作品の空撮に現れる「LOS ANGELES」の文字の下には、「PLAYS ITSELF」という文字が異なる字体で新たに書き添えられている。「Los Angeles Plays Itself」、それがこの映画のタイトルだ。それにしても、このタイトルはいったい何を意味しているのだろうか。「ロサンゼルスが自分自身を演じる」。演じるロサンゼルスと、演じられるロサンゼルス。つまりは、本物のロサンゼルスと、演じられた、虚構のロサンゼルスがあるということである。


トム・アンダーセンが監督したドキュメンタリー映画『Los Angeles Plays Itself』は、それまでに撮られてきた数々の映画の中でロサンゼルスがどのようなイメージに収まってきたかを、おびただしい映画作品を引用しつつ描いた映画である。『ゴダールの映画史』にならって、この映画を『トム・アンダーセンのロサンゼルス〈映画〉史』と呼ぶこともできるだろう。実際、映画のイメージと化したロサンゼルスを様々な視点から批判的に語りつつ、映画の歴史と都市の歴史を同時に浮かび上がらせてゆくアンダーセンの手つきは、映像を通して「映画史」を語るゴダールの語り口を思い出させなくもない。

ゴダールの映画史』を見ても思うことだが、引用された映画の断片というのはなぜこんなにも魅力的なのだろうか。映画を描いたさして出来の良くないドキュメンタリーであっても、そこに引用されている映画の断片だけはなぜか心に引っかかり、気になってあとで本編を見てしまったということはよくある(そして、実際に見てみたら別に大した映画ではなかったということも、またよくある話である)。

『Los Angeles Plays Itself』はそんな出来の悪いドキュメンタリーとは違って、非常に良くできた映画である。中で引用される映画も、手近にある映像をとりあえず使ってみたといったデタラメさのつきまとう『ゴダールの映画史』とは違って、きまじめに選ばれたもので、よく考え抜かれている。その見せ方もとてもうまい。むろん、『ゴダールの映画史』と同様に、なぜこの映画ではあの作品は引用されているのに、この作品は引用されていないのか、という批判をすることは可能だろう。3時間という限られた時間を考えれば、引用できる作品に限りがあることは重々承知の上だが、なぜあの作品は使われていないのだろうという疑念というか、不満は、わたしも映画を見ながらつい感じてしまった。

フランク・ロイド・ライト設計によるエニス・ハウスや、 ジョージ・ハーバート・ワイマン設計によるブラッドベリー・ビルディングといったロサンゼルスに実在する建物が、『地獄へつづく部屋』や『ブレードランナー』といった作品の中で、時空を無視してフィクショナルに使われている様子や、バンカー・ヒルやユニオン駅のような特定の場所が映画の中でいかいかなるイメージの変遷を辿ってきたかを、様々な作品をモンタージュしながら見せていく場面はこの映画の最高の見せ所の一つだろう。しかし、たとえば、そのブラッドベリー・ビルディングも、バンカー・ヒル地区にある〈世界で最も短い鉄道〉エンジェルス・フライトもともに登場するジョセフ・ロージーの『M』は、なぜかこの映画では全く言及されていない。あるいは、デイヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』(「L.A.ノワール」は、ある意味、この作品で頂点を迎える)を最も重要な欠落と捉える人もいるだろう。おそらくこうした欲求不満は、この映画を見るひとりひとりが多かれ少なかれ抱くことに違いない。



アンダーセンは、こうして引用される無数の映像に、ナレーションを通じてコメントを加えてゆくのだが、カリフォルニア芸術大学で映画についても教えているという彼がこの映画で語る言葉は非常に鋭く、理路整然としており、かつ機知に富んでいて、ロサンゼルスについても、ロサンゼルスを描いた映画についても、教えられることが多いのだが、それを逐一ここに書き留める余裕はとてもない。ごくごく簡単に要約だけしておく。


この映画は大きく三つのパートに分かれている。1.「背景としてのロサンゼルス」、2.「登場人物としてのロサンゼルス」、3.「主題としてのロサンゼルス」の三つである。この三つの部分は必ずしもクロノロジーに従って構成されているわけではないが、まったく歴史の時間軸と無縁に構成されているわけでもない。

「背景としてのロサンゼルス」では、映画の中でロサンゼルスがまったく別の都市(たとえばシカゴ、場合によってはスイスやベトナム(!))として描かれたり、そこにある建物が実物とは全く別の使われ方をしたり(先ほどのエニス・ハウスなど)といった具合に、ロサンゼルスが映画の中でただの背景、あるいは道具として用いられている例が、具体的な引用とともに示される。

「登場人物としてのロサンゼルス」では、ロサンゼルスの地位はかなり昇格していて、映画になくてはならない役割を果たすようになっている。戦後、ロサンゼルスがフィルム・ノワールにおける特権的な都市となっていくことはよく知られているが、ここでも特権的な作品として多くの時間を割かれているのは、ビリー・ワイルダーによるフィルム・ノワールの傑作『深夜の告白』である。また、ロスという場所に関しては一切の嘘なしに描かれているノワール作品『キッスで殺せ』が、その意味で高く評価されている。このパートで提示される、「ロー・ツーリスト」(ヒッチコックに代表される)と「ハイ・ツーリスト」(アントニオーニなど)の区分も興味深い。


最後の、「主題としてのロサンゼルス」では、ロサンゼルスという都市そのものが映画の主題となっている作品が話題になっていて、とりわけ、『チャイナタウン』と『L.A.コンフィデンシャル』という、ロサンゼルスの暗部を描いた二つの最重要作品をめぐって長々としたコメントがつづく。この2作品においてロサンゼルスはいわば映画の主役を演じているのだが、それでもやはり、ロサンゼルスがロサンゼルスを演じていることには変わりはない。ロサンゼルスを一種のパラダイスとしてバラ色のイメージで描いた作品同様、これらロサンゼルスの隠された部分を描く作品もこの都市の真実を必ずしも正確に描いているわけではないという批判が加えられる。また、アンダーセンがアニメ版『チャイナタウン』と呼ぶロバート・ゼメキスの『ロジャー・ラビット』におけるロスの交通問題と政治との関わりなども、映画とは関係なしに興味を惹かれる。


ロサンゼルスで生まれ育ち、この街の変遷を見続けてきたアンダーセンにとって、ロサンゼルスを語るとは、ある意味、自分自身を語ることでもあり、『Los Angeles Plays Itself』は、彼にとって非常にパーソナルな映画でもあったはずである。それでいながら、この映画は、いい意味で、センチメンタリズムやノスタルジーとは無縁の、ドライな知性によって作られているという印象を受ける。ナレーションの言葉がアンダーセンによるものでありながら、彼とは別の人間によって読み上げられていることも、このこととは無縁ではないだろう(アンダーセン自身は、自分の声を聞きながら編集をしたくなかったといっている)。


しかし、不思議なのは、アンダーセンが映画を愛しているのか、それとも憎んでいるのか、この映画を最後まで見てもよくわからないことである。映画が、現実のロサンゼルスとは乖離したイメージをいかにして作り上げてきたかを、彼は具体的な作品を通して見せていくのだが、そうしたフィクショナルなイメージを彼は本気で批判しているようにも思える。「Los Angeles」を「L. A.」と略して呼ぶことに対する、ふつうの人には理解しがたい彼の異議申し立ても、そのあたりに関係しているのだろう。

映画は現実をゆがめるべきではないという、純粋な、あるいは素朴なバザン主義とでもいったものが、アンダーセンの語る言葉の端々に見え隠れしている(この映画の最後で顕揚されるのは、ケント・マッケンジーによるネオリアリズム的作品『異郷生活者たち』(Exiles) や、黒人映画作家チャールズ・バーネットが黒人たちをリアルに描いた『Killer of Sheep』である)。おそらく、こうした点が、この映画でもっとも批判されるべき部分ということになるのかもしれない。


しかし、アンダーセンの意図がなんであれ、この映画が、映画をテーマにした非常に魅力的なドキュメンタリーであることは間違いないし、おそらく彼が批判的な意味で引用している映画の断片でさえ、見るものを惹きつけてやまない。


最後に一つ付け加えておくと、この映画では、2百本以上の作品が引用されているらしいのだが(むろん自分で数えたわけではない。そんなにたくさんあったかなという気もする)、そのほとんどは第二次大戦後の映画作品に限られている。この映画に登場する戦前の作品となると、エデンデール撮影所時代に撮られたマック・セネットの作品や、ローレル&ハーディの『ミュージック・ボックス』など、ほんの数作品に過ぎないし、アンダーセンもこの時代についてはあまり言及していない。いわば、戦前のロサンゼルスは不可視の都市だったのである。むろん、それは、ロサンゼルスがニューヨークなどと比べて遅れてきた都市だったということに過ぎないのかもしれない。しかし、本当にそれだけなのだろうか。気になる点ではある。これは、今後の研究課題としたい。


(『Los Angeles Plays Itself』は本国アメリカでもまともに公開されておらず、日本ではなかなか見るのが難しい作品だったが、昨年になってブルーレイ化されたので、高画質の画面で簡単に見ることができるようになった(下写真)。DVD も同時に発売されている。