明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。




























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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

G・W・パブスト『懐かしの巴里』『炭坑』

『懐かしの巴里』(Die Liebe der Jeanne Ney, 27) ★★★


なにやらノスタルジックな邦題が付けられてしまっているが、実際の内容は、タイトルからイメージするものとはだいぶ違う。パブストとしてはあまり有名な作品ではないけれど、時にどぎつくいやらしい人間描写が、いかにも『パンドラの箱』と『淪落の女の日記』の監督にふさわしい、なかなかの傑作である。

原題は「ジャンヌ・ネイの恋」ぐらいの意味だろう。邦題は、とにかく「巴里」と付けたかっただけだと思うが、ロケーション撮影によってこの当時のパリの様子がふんだんに記録されているのは本当である。


物語は、ロシア革命に揺れるクリミアから始まる。ヒロインのジャンヌ・ネイは、この地にオブザーバーとして滞在している外交官の父親をボルシェビキに殺されてしまうのだが、そのボルシェビキというのが、実は、自分が愛した男アンドレアスだと知って彼女は愕然とする。

ジャンヌは、革命軍に占拠されたクリミアを辛くも脱出し、パリに逃げ延びる。アンドレアスも実は、革命の任務のためにパリに来ていた。やがてふたりは再会し、再び逢瀬を重ねる。父親を殺した男との恋愛というものすごいドラマのはずなのだが、彼女の心の葛藤はほとんど描かれず、それどころか、そんな出来事などなかったかのように物語は進んでゆく。

実際、パブストは、ジャンヌとアンドレアスとの恋愛の行方を描くこと以上に、彼らの周りに現れる人間たちの姿、とりわけ、彼らの欲にまみれた醜い姿を描くことに興味を持っていたようだ。ジャンヌがパリで身を寄せることになる私立探偵の叔父、その盲目の娘(ブリギッテ・ヘルム!)、この娘を利用して事務所の金を盗もうとする売国奴ハリビエフ(彼はクリミアで、ジャンヌの父親が殺されるきっかけを作った男で、今はアンドレアスと同じくパリにいて、ジャンヌの叔父の金だけでなく、ジャンヌをも狙っている)などなど、あくの強い人間たちが次々と現れるのだが、パブストが彼らを描くタッチがこれまたいやらしい。

売国奴ハリビエフ(フリッツ・ラプス)は、ジャンヌの叔父の盲目の娘の境遇につけ込んで、金を盗む目的のためだけに彼女に結婚を申し込む。ハリビエフは、喜びに舞い上がる彼女の手を右手で握りしめる一方で、彼女の目が見えないのをいいことに、もう一方の手で隣に座ったジャンヌの体をまさぐろうとする。

中でも強烈な印象を残すのは、ジャンヌの叔父が守銭奴になる場面だ。金持ちの盗まれた指輪を取り戻し、その謝礼に大金を受け取ることになったこの叔父は、まだ受け取ってもいないその大金を貰った時のことを想像して、真夜中にひとりでありもしない札束を数え、舌でなめ回すのである(エアー札束?)。

この叔父は結局ハリビエフによって殺され、その罪はアンドレアスになすりつけられる。恋人の無実を証明しようとジャンヌが奔走するクライマックスは、まるでグリフィスの映画を見ているように面白い。


『炭坑』(Kameradschaft, 31) ★★★


『我が谷は緑なりき』『どたんば』『メイトワン-1920』など「炭坑映画」とでも呼ぶべき映画の名作は数あるが、これはその最高傑作のひとつと言ってもいい一本。

炭坑映画には炭鉱事故の場面がつきものである。それはこの映画も例外ではない。ただ、ここで描かれる炭坑は、他の炭坑映画とは少し状況が違っている。この炭坑の真ん中にはフランスとドイツの国境が走っているのであり、しかも、映画が描くのは、フランスとドイツの間に様々なわだかまりがまだ残っていた第一次大戦終戦直後であるから、状況はいっそう複雑だ。

映画の冒頭、2人の少年が空き地でビー玉遊びをしている。最初は仲良く遊んでいたふたりは、やがて勝ち負けをめぐって喧嘩をはじめ、地面を指さして、ここからこっちはフランスで、そっちはドイツだ、この線からこっちに入ってくるなと言って、別々の方向に去ってゆく。少年のひとりはフランス人で、もうひとりはドイツ人だったのである。映画はこうして見えない国境を描くところから始まるのだが、国境は、やがて次々と物質化されてゆく。まず、独仏の国境の検問所の杓子定規な対応が描かれ、次には、地下深くの坑道でさえ、頑丈な鉄柵が両国の行き来を閉ざしていることが示される。

そんな状況の中、フランス側の炭坑で最悪の事故が起きる。坑内に充満していたガスが引火し、大爆発したのである。一刻も早い救助活動が必要とされる時、例外的な処置として、ドイツ人たちの救助チームが国境を越えてフランス側の炭坑に向かう。その一方で、3人のドイツ人が、地下の坑道をふさいでいた国境の鉄柵を勝手にぶちこわして、坑内に閉じ込められたフランス人の救助に向かう。彼らは、その直前のシーンで、フランス人たちがたむろする酒場に乗り込んでいって、フランス人たちに侮辱された(と、少なくとも本人たちは思い込んでいる)3人である。

こうして、両国間の様々な怨恨を乗り越えて、必死の救助活動が行われるさまを映画は描いてゆく。この映画でもっとも有名な場面の一つは、ガスマスクをかぶったドイツ人の救助員を眼にしたフランス人抗夫が、その瞬間、第一次大戦の戦場での記憶をフラッシュバックさせてしまい、錯乱状態に陥るシーンだ。このシーンは、当時でさえ、やり過ぎだと言われて批評家から批判されもした、悪名高い場面でもある。しかし、パブストとしては、この炭坑映画を戦争の問題と重ね合わせて描くことにこそ意味があったのだろう。

救助活動が終わった時、フランス人抗夫たちもドイツ人抗夫たちも、国の違いを超えて皆が一つとなって闘い、この困難な作業をやり終えたことをたたえ合う。そして最後に、ドイツ人のリーダーと、フランス人のリーダーがそれぞれ、自分たちの敵はドイツ人でもフランス人でもない、われわれの共通の敵はガスなのだという趣旨の演説を行って、拍手喝采をあびる『西部戦線一九一八年』を見たものならば、これはあの映画で描かれた、「真の敵はドイツ人でもフランス人でもなく戦争なのだ」というテーマと全く同じものだということに気づくだろう。

この映画は実際に起きた炭鉱事故をもとにしているのだが、いくら実話をもとにしているとはいえ、炭鉱事故をきっかけにフランス人とドイツ人が互いの立場を超えて一つになって闘う姿を描くことを通じて、最後に反戦を訴えかけるというのは、今のわれわれにはいささか理想主義的過ぎると思えてしまうのもたしかである。しかし、忘れてはならないのは、この映画がこの演説のシーンで終わっているわけではないということだ。

パブストは、ドイツ人とフランス人が協力し合う姿を描く一方で、それを妨げる国際政治の力学や、その政治を基底で支える資本主義の構図(現場に出向きもせず、建物の上階から電話のみで指示を出す会社の幹部たちと、地下で必死で作業する抗夫たちの対照)を、随所に描き込んでいた。そして、この映画のラストがまた非常にアイロニカルなものだ。あの3人のドイツ人によって壊された地下の坑道の鉄柵は、結局、元通りに設置し直され、柵のドイツ側とフランス側それぞれに、銃を持った見張りが立ち、再び国境の行き来が閉ざされるところで映画は終わっているのである。



しかし、わたしがこの映画でいちばん驚いたのは、実は、今書いてきたこととはあまり関係のないシーンだった。その場面を見た時、最初、わたしはそれが何を意味しているかがわからず呆然としてしまった。それほど強烈な印象を残すシーンだったのだ。

鉄とガラスでできた巨大な建物の天井から、絞首刑にされた無数の死体がつり下げられている──。と、最初はそう思えたのだが、つづくショットで、これもまた広大なシャワー室が映し出され、そこで無数の抗夫たちが汚れた体を洗い流しているのを見て、やっと、先ほど天井からつり下げられた死体に見えたものが、実は、抗夫たちが脱いだ衣服がひもにつり下げられていたのだと理解したのである。

『炭坑』はパブストの映画の中ではドキュメンタリータッチで撮られたリアリスティックな作品と見なされるのが普通である。たしかに、暗い炭坑の底の場面でもことさら表現主義的な照明が用いられることはなく、パブストはあくまで自然な描写に徹しているといっていい。しかし、この映画には、この絞首刑を思わせる場面のように不吉なイメージがときおり紛れ込んでもいるのだ。この映画のリアリズムには表現主義が染みこんでいると、映画批評家のバルテレミー・アマンガルは指摘している。

パブストがこのシーンをどういう意図で撮ったのかはわからない。しかし、今われわれがこの映画のこのシーンを見る時、そこにナチスガス室のイメージを重ね合わせて見ないことは難しいだろう。無論、この映画が撮られたのが1931年だということを考えれば、パブストがそんなことを考えていたことはあり得ない。ただ、彼がこの映画にこめた平和へのメッセージを考えると、このシーンがやがてドイツに起きる事態を予言していたように思えてきて仕方がない。