明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

マリオ・ソルダーティとカリグラフ派についての短い覚書

「カリグラフィスム」(イタリア語で「カリグラフィスモ」、あるいは「チネマ・カリグラフィスタ」)は、1940年代前半にイタリアで制作された映画作品について使われる言葉で、この時代の「映画の流派(傾向)」のひとつ。複雑な表現、文学作品を原作としていることなどが、この流派の共通の特徴であり、これらの点において、ファシズム時代の最晩年のイタリア映画における主流の作品とは異なっている。この流派に与した映画監督としては、マリオ・ソルダーティ、ルイジ・キアリーニ、レナート・カステラーニ、フェルディナンド・マリア・ポッジォーリ、アルベルト・ラトゥアーダなどがいる。(ウィキペディア フランス版)


1940年代の初頭のイタリアに「カリグラフ派」と呼ばれる映画監督たちがにわかに登場する。もっとも、こういう流派の名称によくあるように、「カリグラフ派」、あるいは「カリグラフ主義」という名前は彼らが自分たちで付けたものではなく、当時の批評家たちによって半ば侮蔑的に貼り付けられたレッテルであった。その上に、「白い電話」や「ネオレアリスモ」などといった映画の流派を表す名称と比べると、この「カリグラフィスム」は、名前とそれが指し示しているものとの関係があまり明確でないこともあって、何を意味しているのかがいまひとつわかりづらい。わたしが理解したところでは、カリグラフィスムとは、リアリズムがことさら重んじられていたファシズム政権下のイタリア映画において、現実よりも美学や形式を重視し、多くの場合、文学作品の中に題材を求めたり、19世紀など過去の時代に物語を設定するなどのかたちで撮られた映画作品をさしている。共通の映画スタイルというよりは、ひとつの映画的傾向といったほうがよく、その背景にはファシズムの現実からの逃避があったと考えられる。ロッセリーニでさえも一見ファシズムに荷担するような作品を撮っていたこの時期(『白い船』では、わたしの勘違いでなければ、「ドゥーチェ万歳」という声がどこかで聞こえるはずだし、『ギリシャからの帰還』の原案を書いている「ティト・シリヴィオ・マルシーニ」とは、実は、ムッソリーニペンネームである。ロッセリーニの〈ファシズム時代〉については、そのうちまとめて書いてみたい)、ネガティヴなかたちであったとはいえ、これらの映画はムッソリーニの体制にたいする抵抗の一つの形を曲がりなりにも示していたとも言える。

今回紹介するマリオ・ソルダーティは、カリグラフ派と呼ばれる作家たちのなかで、日本では、幾分なじみのあるカステッラーニやラトゥアーダ(彼らとて、今となっては上映されることは皆無だし、言及されることさえほとんどないのだが)などと比べてもずっと知名度は低く、ほとんど無名に近い存在であると言ってもいいだろう。フランスなどでは昔から一貫して評価は高かったように思えるのだが、それでも、上映の機会に恵まれていたとはとても思えない。また、ソロルド・ディキンソンのように、近年、再評価の動きが高まっているという話も聞かない。これからも当分のあいだは、日本でソルダーティの作品が DVD 化される事は、何かの間違いでもない限りなかなか望めないだろう。

実は、わたしもつい最近になってやっと3本ほど見たばかりなのだが、これがどれもなかなか素晴らしくて、ちょっと驚いているところである。ソルダーティは、一目でわかる映画的才能にあふれた映画作家という感じではなくて、どちらかというと巧みな語り手であるといったほうがいいだろうか。適切な題材と出合った時はいい仕事をするが、そうでないときは平凡な結果しか出さない。そういう監督である可能性は大いにあるが、少なくとも今回見た3本、特に『Malombra』と『Le provinciale』は、傑作といってもいい作品であった。

かれはそもそも小説家としてデビューし、海外でも翻訳が出るぐらいに成功した後に映画を撮り始めたのだった。作家出身の監督だからと簡単に結論付けてはいけないとは思うが、今回見た3本がどれも物語性に富んでいて、またその語り口が見事であるのはたしかである。もっとも、自作を映画化することもあったソルダーティだが、この3本の原作はどれもソルダーティ自身の小説ではない。


『Malombra』(1942) ★★★

ソルダーティの代表作のひとつであり、また、カリグラフィスモの屈指の傑作のひとつとも言われる作品。わたしも、これがいちばん気に入っている。

19世紀末にアントニオ・フォガッツァーロによって書かれた同名の小説の映画化。映画の時代設定も19世紀になっていて、戦争などどこ吹く風と数奇な物語が語られてゆく(このように時代を前世紀などの過去に設定するのが、カリグラフィスモの特色のひとつであった)。


両親を失ったマリア・デ・マロンブラ侯爵夫人(イサ・ミランダ)は叔父によって引き取られ、アルプスの麓にある風光明媚な湖を見下ろす城館で暮らすことになる。彼女がそこから出て行くための条件はただ一つ、誰かと結婚することであった。厳格で冷たい叔父によってなかば幽閉されるようにして暮らすうちに、彼女は次第に正気を失ってゆく。そのきっかけとなったのは、彼女の先祖に当たるセシリア伯爵夫人が書き残した草稿を、寝室で見つけたことだった。セシリアは嫉妬深い夫によって幽閉されていたのだった。侯爵夫人は、このセシリアというすでにこの世にはない女性に次第に自己を重ね合わせるようになり、やがては自分をその生まれ変わりだと思い込むようになっていく。そこに、この一族とも縁があり、また魂の輪廻をめぐる本を書いてもいるコッラード教授なる人物が館に来て住まうことになる。侯爵夫人は、匿名で書かれたその魂の輪廻をめぐる本を読んでいて、作者に手紙を送りさえしていたのだが、コッラードがその作者だとは気づかない。侯爵夫人は、狂気の中で、厳格な叔父はかつてセシリアを幽閉した嫉妬深い夫の生まれ変わりであり、コッラード教授はセシリアが愛した男の生まれ変わりであると信じるようになる。病死した叔父の葬儀が行われる中、侯爵夫人は狂気に駆られてコッラードを殺すと、ボートで湖に漕ぎ出し、湖に飛び込んで息絶える。ちょうど遥か昔にセシリアがそうしたように。


湖をボートで渡って行き来するしかない閉ざされた城館という舞台、そしてそこで繰り広げられる物語もなかなかのゴシックぶりを見せている。イタリアにジャンルとしてのホラー映画はまだ生まれていなかったが、この映画にはホラーに近い雰囲気が随所に漂っている。ここからリカルド・フレーダやマリオ・バーヴァはそう遠くはない。

何度も言うように、19世紀に時代設定されていること自体が、ファシズムの現実を否定することであったのだが、その物語のなかでさらに、ヒロインは狂気に駆られて現実を拒否し、いっそう深い過去へと逃避する。この映画の全編にみなぎっている閉所恐怖症的な息苦しさは、同じくこの時代に撮られた次の『悲劇的な夜』にも同様に見られるものだ。

当初はアリダ・ヴァッリがヒロインを演じる予定だったが(ヴァッリは、ソルダーティの前作『Piccolo mondo antico』に出演していた)、諸事情でイサ・ミランダに変更された。ソルダーティはこの配役に満足していなかったとも聞くが、侠気のヒロインを演じるイサ・ミランダのあえかな演技は実に素晴らしく、アリダ・ヴァッリだったら(当時はまだかけだしだったとはいえ)、若干、たくましすぎる感じになっていたのではないかという気もする。


イサ・ミランダは、ファシズム体制下で登場したイタリアのトーキー映画最初のディーヴァ。1933年にデビューしたあと、マックス・オフュルスがイタリアで撮った『みんなの奥さん』で、2000人の中からオーディションで主役に抜擢され、暗い過去のある女優を悲劇的に演じた。このあと、『輪舞』でも彼女はジャン=ルイ・バローの愛人役を演じて鮮烈な印象を残すことになる。しばしば、ディートリッヒやガルボとも比較される女優だが、2人とは違ってアメリカでは成功しなかった。ちなみに、マヌエル・プイグによるイタリア映画案内小説(といってもよい)『グレタ・ガルボの眼』には、彼女に捧げられた一章(「あのミステリアスな面影」)が入っている。


ちなみに、タイトルの "Malombra" はヒロインの名前であると同時に、フランス語で言うなら "mal"(「悪い」)+"ombre"(「影」)という意味も含み持つ。


『悲劇的な夜』(Tragica notte, 42) ★★

デルフィーノ・チネッリの原作の映画化。これもソルダーティの代表作のひとつであり、カリグラフィスムに属する作品のひとつに数えられる。

この映画には城館も湖も出てこず、舞台装置にはゴシック的なところは少しもない。しかし、物語は『Malombra』ほど現実離れはしていないものの、やはり非常にロマネスクである。この映画は一言で言うならば、復讐の物語ということになるだろう。しかも、その復讐というのが、回りくどくて、 非常に陰湿なのである。

森の密猟者たちと、彼らを見張るサディスティックな森番とのあいだには長年の確執があった。あるとき森番が密猟者たちによって袋叩きに会う。密猟者たちは覆面をしていたが、森番はそのなかにナンニがいたことに気づく。森番は、うわべだけはすべてを水に流して忘れた振りをして、ナンニに近づくが、実は、かれはあの屈辱を受けたあと、2年もの歳月をかけて、復讐の準備を着々と進めていたのだった。ナンニの妻が、密猟者の幼馴染である領主の伯爵とプラトニックな恋愛関係にあることをかぎつけた森番は、密猟者をたくみにたきつけて、狩りの最中に事故に見せかけて伯爵を殺させようとする……。

『Malombra』に比べると舞台装置は地味だし、全体として際立った部分に欠ける作品ではある。しかし、この作品にもどことなく漂っている閉塞感は、ネガティヴなかたちで時代を反映しているようでもあり、興味深い。陰湿な復讐をねちねちと時間をかけて実行してゆくサディスティックな森番ステファノの容貌や、猟銃を担ぐしぐさがムッソリーニを彷彿とさせるといううがった見方もあるが、果たしてソルダーティによるこの俳優の起用と演技指導に、そのような意図が込められていたのかどうか。わたしには疑わしく思えるのだが、むろんありえない話ではない。


『Le provinciale』(51) ★★★

モラヴィアの小説を映画化したもので、ソルダーティ自身がこれを自分の最高傑作と考えていたとも言われる。戦後に撮られた作品で、描かれる時代も、映画が作られたのとほぼ同時代を描いたものと考えてよく、したがって、一般にはカリグラフィスムの作品には数えられないはずである。

クラウディア・カルディナーレ演ずるヒロイン、ジェルメーヌが、なにやら思いつめた表情で家を飛び出し、質屋へ向かう。彼女はそこで宝石のついた指輪を売ろうとしたのだが、それがただのイミテーションの宝石だとわかり、うなだれて帰ってくる。ジェルメーヌは、彼女の夫と、もう一人いかにも品のなさそうなマダムと、自宅で会食をするのだが、その間もずっと思いつめた顔をしていたジェルメーヌは、何を思ったか、横に座っていたそのマダムを、手に持っていたフォークでいきなり突き刺す。マダムに命の別状はなかったが、ジェルメーヌの夫はわけがわからず、うろたえる……。

こんな風に映画は衝撃的なシーンとともに始まる。ジェルメールの夫同様、観客にも、最初は事態がまったく飲み込めない。続く回想シーンが少しずつ謎を解き明かしてゆくのだが、そこだけ見ると、この映画の構成は、ブレッソンの『やさしい女』のそれと似ていなくもない。ただ、違うのは、『やさしい女』では、回想の主体となるのが、妻の行動が理解できずに苦しむ夫だけだったが、この映画では、回想の主体が複数存在することだ。回想中心に映画は進んでいくのだが、その回想の語り手が次々と変わってゆくのである。一見トリッキーにも思えるこの語りに最初は驚くが、これが実に自然に、また効果的に使われており、ヒロインの最初は異常とも思えた行動の意味が徐々に明らかになるにつれて、見るものをぐいぐいと物語に引き込んでゆく。

金持ちと結婚して玉の輿の生活をすることを夢見る田舎娘が、結局はぱっとしない大学教授と結婚する。そこに悪魔のような女が近づいて来、娘の欲望とフラストレーションに付け込んで、ただならぬ道へと引きずり込んでゆく。イタリア版『ボヴァリー夫人』とでも呼べそうな内容の、下手をすればただの下品なメロドラマになりかねない物語を(フランスではこの映画は不当にも「愛を売る女」という扇情的なタイトルで公開された)、いわば力技で、非常に見事に、そして上品に映画にしていて、最後はちょっと泣ける話になっている。悪くない。ぜんぜん悪くない。


見たのはこの3作だけ出し、最高傑作との呼び声も高い『Piccolo mondo antico』もまだ見ていないので、性急な判断は控えたいが、今回見た作品だけから判断しても、マリオ・ソルダーティという監督は、到底無視できる存在ではないし、少なくとも、レナート・カステラーニなどよりは、よほどわたしの好みに合っていることはたしかである。日本ではネオリアリズム作品に注目が集まる一方で、正当な評価を得ることなく忘れられていったイタリアの映画監督が少なくない。ソルダーティはそんな作家たちの筆頭だったといってもいいだろう。彼以外にも、発掘すべき作家たちがきっとまだまだ埋もれているはずである。続けて探し出してゆきたい。