明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。










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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

幽閉と狂気――アドゥール・ゴーパーラクリシュナンについての覚書


一昔前は、日本でインド映画といえば後にも先にもサタジット・レイ(「レイ」ではなく「ライ」と読むのが正しいらしいのだが、いまさら言われてもなぁ)のことだった。やがて、『ムトゥ 踊るマハラジャ』でインド製ミュージカル映画の空前のヒットと共にインド映画ブームが始まるころには、グル・ダットににわかに注目が集まり、回顧上映が行われることもあった。そのころには、サタジット・レイは、かつての評価など何かの間違いだったとばかりに完全に忘れ去られていたが、しばらくすると、グル・ダットもほとんど上映されることもなくなり、半ば忘れ去られていく。いつもながらの光景だ。その時々の流行で、誰かに注目が集まると、その陰で、他の重要な作家たちのことはあっさりと忘れ去られてしまう。インド映画に限ったことではない。ニュー・ジャーマン・シネマがブームになったころも、ヴェンダースに注目が集中し始めると、ヘルツォークファスビンダーは見る機会すらなくなっていった。いつもながらのことである。

そんなわけで、あれだけブームになったにもかかわらず、インド映画は渉猟されつくすどころか、いまだに未知の作家たちを数多く残したままだ。とても一回では紹介しきれない。今回紹介するアドゥール・ゴーパーラクリシュナンは、サタジット・レイやリットゥク・ガタクの後に現れたインドの新世代の監督たちの中でもっとも重要な一人と考えられている人物だ。日本ではほとんど無名に近い存在である。もっとも、後で紹介する『マン・オブ・ザ・ストーリー』は、実は、NHKが製作に絡んでいる作品であり、テレビでも放映されたことがあるので、見ている人は案外多いかもしれない。


ねずみ取り』(Elippathayam, 81) ★★★


アドゥール・ゴーパーラクリシュナンは、インド最南端に位置するケーララ州の出身で、マラヤーラム語で映画を撮る監督である。彼は好んでこの地方を舞台に映画を撮ってきた。ちなみに、『サーカス』などの作品で日本でも多少名前の知られるアラヴィンダンもこの地方の出身である。ゴーパーラクリシュナンとは5歳ほど年上に当たるが、ほぼ同世代の監督といっていいだろう。

マラヤーラム語は、インドにおいてはほとんどこの地方でしか話されない言葉であり、その意味において、ゴーパーラクリシュナンの映画は、地方性を身にまとったマージナルな存在であるといえる。もっとも、それは必ずしも、マラヤーラム語映画の観客数が、ヒンズー語映画の観客数と比べて極端に少ないことを意味しはしない。一時期は、ヒンズー語映画の製作本数を超える数のマラヤーラム語映画が作られていた時代もあったほどで、今ではさすがに、製作本数でヒンズー語映画には及ばないものの、それでも、相当な数の作品が作られているという。

ねずみ取り』が描くのも、このケーララ州に住むある特権階級の家族の物語だ。もっとも、特権階級といっても、時代は変わりつつあり、封建主義は崩壊しかけていて、家の財政もかつてのように豊かではない。ゴーパーラクリシュナンは余計な説明は一切しないので、最初は家族関係を見極めるのもなかなか大変なのだが、この映画に登場するのは、古い大屋敷に住む若き主(あるじ)ウンニとその3姉妹である。3姉妹のうち一番上の姉は結婚して家を出ている。主のウンニは独身で、2番目の姉ラジャマが彼の身の回りの世話を一身に引き受けている。


映画は、ウンニの枕元にねずみが現れ、大騒ぎになるところから始まる。二人の妹が木製のねずみ取りを仕掛けると、ねずみはまんまとわなに引っかかる。ラジャマは捕まえたねずみをねずみ取りごと水汲み場にもって行き、水につけて殺す。

この冒頭のシーンにこの映画のほとんどすべてが集約されているといってよい。ねずみ騒動でも見て取れた主のウンニの行動力のなさと無能ぶりは、このあとも繰り返し描かれてゆく。どこかに出かけていこうとしたものの、道に水溜りがあるのを見つけると、服が汚れるのはいやだとばかりにすごすごと引き返してくる。真夜中、家の重要な収入源である椰子の実を泥棒が盗みに来たときも、妹たちが何とかしてくれと頼むのを、ウンニは、「あれは泥棒じゃない。風の音だ」といって、布団を頭からかぶってやり過ごそうとする。口だけはえらそうだが、彼は独りでは何もできず、炊事、洗濯、その他もろもろは、すべて二番目の妹ラジャマにまかせっきりで、彼女がいなければ、風呂を沸かすことすらできない。ウンニは、おじが持ってきたラジャマの結婚話を、相手がつりあわないといって断るが、それもおそらくは、ラジャマがいなくなると自分が生活できなくなるからという理由からに違いない。
ラジャマが一家の母親役を従順に(もっと言えば奴隷のように)引き受け、自分のことは差し置いて人の世話ばかりに明け暮れ、日増しに焦燥して行く一方で、いちばんの現代っ子である末の妹は、ウンニの横暴も、ラジャマの苦悩も意に介さず、考えていることといえばボーイフレンドや化粧のことばかりで、ウンニとは別の意味でだが、これもひたすらわが道を行くだけだ。

あるとき、この末の妹が突然姿を消す。例によって何の説明もされないのだが、おそらく、イラクに戦争に行った恋人の後を追ったのではないかと推測される。やがてラジャマも病に倒れ、家から運び出される。とうとう一人になってしまったウンニは、行動に移るどころかますます殻に閉じこもり、文字通り、屋根裏部屋のような一室に鍵をかけてそこから出てこなくなる。映画は、冒頭のねずみ取りにかかったねずみのように、自ら罠にかかってしまったウンニが、捕らえられてそこから運び出されるシーンで終わっている。

テーマはわかり過ぎるほどわかりやすい。自分の境遇に何の疑いもなく、その特権に甘えて生きてきた人間が、周りの変化に順応できず、結局、自分の中へと閉じこもってゆき、自滅してゆく。タイトルそのままの映画だ。似たようなテーマを描いた作品に、サタジット・レイの名作『音楽室』がある。この映画もまた、周りの変化に順応できずに、自滅してゆく貴族を描いたものだった。しかし、『音楽室』の貴族が、金で物を言わせるブルジョアに、破産してまでも対抗しようとするまさに「高貴さ」によって人を魅了したのに比べると、『ねずみ取り』のウンニにはそんな意地も、高貴さも皆無である。

蓮實重彦によると、ゴーパーラクリシュナンは「精神的にはベンガル語系のリッティク・ガタックの弟子筋に当たる」とのことだが、これには彼の趣味もたぶんに混じっているのだろう。ゴーパーラクリシュナン自身は、サタジット・レイの『大地のうた』を始めてみたときの衝撃を繰り返し語っている。


まだ数本しか見ていないのでこの作家について全体像を語る立場にはないが、この映画に描かれる幽閉(あるいは自閉)、狂気といったテーマは、彼のほとんどすべての作品に通じるものであり、その意味でもこの作品は彼のフィルモグラフィーの中でも中心的作品と考えていいように思える。

たしかに、全体としてはわかりやすい作品であるが、ゴーパーラクリシュナンは、余計な説明を一切省略し、日常の細部をいわばミニマルに反復して描くことで、この映画をまるで音楽のように作り上げている。音や色彩の使い方も非常に繊細で、わたしの筆ではとてもこの映画の魅力を伝えきれない(例えば、二度繰り返される飛行機の音。一度目は、ラジャマと末の妹が庭で空を見上げる。二度目は、末の妹が消えた直後に、やはり飛行機の音に気づいたラジャマが、今度はひとりで空を見上げる。主と3人の妹が来ている服の、白・緑・青・赤という色の使いわけも、考え抜かれている)。

上映される機会はまずないと思うから、DVDでいいのでとりあえず見てほしい。わたしが見た Second Run から出ている DVD はとても画質がよくて、自分の環境ではほとんどブルーレイに近い感覚で見られた。お薦めである。


『マン・オブ・ザ・ストーリー』(Kathapurushan, 95) ★★★


NHK の製作によって撮られた作品。これもやはりケーララ州を舞台に描かれる物語だが、『ねずみ取り』と違って、空間的にも時間的にもずっと大きな広がりを見せる作品になっている。

この映画が描くのは、ある一人の男の少年期から壮年期へと至る人生の物語である。彼もまた、封建貴族の家に生まれ育つが、やはり、時代は変わりつつある。少年時代の主人公が、「友達に〈プチ・ブル〉と言われた。〈プチ・ブル〉って何?」と泣きながら学校から帰ってくる場面に、時代の変化は端的に現れている。

やがて青年になった主人公は、ガンジー主義者でコミュニストのおじに影響されて、マルクス主義に傾倒するようになるが、そのために警察に捕まって10年間投獄されてしまう。

ようやく釈放された主人公は、小さいころからの仲良しだった幼馴染の女(彼女は、彼の家の使用人の娘で、身分としては格下)と結婚し、政治活動からも離れ、穏やかな生活を始める。彼は若いころから小説を書き続けていたが、一向に眼が出ないでいた。しかし、今度書き上げた小説の原稿が人の目に留まり、初めて出版され、話題を集める。だが、その内容が、共産主義の過激派を支持するもので、反社会的であるとして、本はたちまち発禁処分になってしまう。

発禁処分を伝える新聞を読みながら、あとは逮捕を待つだけだなといって、主人公がヒステリックに笑うと、そばにいた息子と妻もやがて笑い出すという、アイロニカルな笑いによってこの映画は終わっている。こんな糞みたいな世界、もう笑うしかないのだ。


この映画では、カットが変わるとその間になにげに10年近くの時間が流れているという場面が何度かあり、『ねずみ取り』の澱んだような世界とは対照的な時間の流れが描かれるのだが、それでも結局、最後は何も変わっていなかったというラストがなんともペシミスティックである。

この作品に描かれる、ガンジー主義やコミュニズムへの共感と、それに対する微妙な距離のとり方は、おそらくゴーパーラクリシュナン自身の経験によって裏打ちされたものだろう。彼の映画は、独自の物語の中にインドの社会の変化をそれとなく巧みに描きこんでいるが、この映画では、それが最もわかりやすい形で現れている。


『シャドー・キル』(Nizhalkkuthu, 2002) ★★★


ケーララ州における最後の死刑執行人を描いた映画。上の2作品は共にスタンダードサイズで撮られているが、この作品だけはシネマスコープ作品である(残念ながら、この作品の DVD はレターボックスサイズの収録になっていて、上の2作品の DVD のクオリティーの高さに比べると、とても物足りない。字幕もハードサブである)。

内容的には、日本の観客にいちばん受けそうな作品であるが、よくよく見るとこの3本の中で、最も狂気をはらんだ作品であるかもしれない。

この映画には、インドの死刑執行人の生活が描かれていて、それだけでも実に興味深い。インドでは死刑執行人は、他とは隔絶された場所で、食料などをたっぷりともらうなど、ある種の特権を与えられて暮らしていたらしい。彼を訪ねてきたものが、数十キロにわたって橋ひとつない大川を、二人の男に肩に担いでもらって渡って会いに行くという場面に、インドの死刑執行人が、文字通り社会の周縁で生活していることが示されている。

彼の家には、絞首刑に使ったロープの縄が天井からつるされている。そのロープを燃やした灰には、聖なる力があると考えられていて、病人が尋ねてくると彼はそのロープを少しちぎって燃やし、その灰を病人にかけて癒してやるのである。死刑執行人は、もちろん不浄な存在として恐れられていた一方で、聖なる人間として尊ばれていたのである。不浄なる存在が反転して聖なる存在でもあるというのは、民俗学の常識といってもいい事柄だが、死刑執行人がこういう具体的な聖なる力を持つというのは、日本ではあまり聞いたことがない気がする。映画の中では、そのロープが死刑囚たち自身によって作られるシーンも描かれる。

ねずみ取り』や『マン・オブ・ザ・ストーリー』に描かれる封建階級の人間たちと同じく、この映画の主人公である死刑執行人も、やはり自分に与えられた特権に何の疑いも抱かずに生きてきたのだが、最後に行った死刑執行で、彼は無実の人間を死刑にしてしまったらしく、それ以来、彼は後悔にさいなまれ、酒におぼれる日々を送っていた。そこに、マハラジャから、新たに死刑執行を行えというお達しが来る。断るわけには行かないので、いやいやながら彼は仕事を引き受ける。

これもまたインド独特だと思うのだが、死刑執行人は、死刑執行の前日は、眠ってはならないというしきたりがあるらしい。そこで、彼を迎えに来た役人が、眠気覚ましに彼に物語を語って聞かせる。このあたりから、この映画の語りは捻じ曲がり、屈折して、静かな狂気をはらんでゆく。

役人の語る話はこうだ。ある若い娘が、村の若者と恋に落ち、何度か逢瀬を重ねる。幸せな時間が流れるが、娘の義理の兄が、彼女によからぬ気持ちを抱き、ついには彼女を強姦して殺してしまう。しかし、その罪は、あろうことか、恋人の若者に帰せられてしまうのだ……。

この物語は映像として繰り広げられるのだが、不思議なことに、その中で若い娘を演じているのは、死刑執行人自身の娘であり、義理の兄を演じているのも、死刑執行人の娘の義理の兄なのである。

実は、これに先立つシーンで、死刑執行人の娘が初潮を迎え、その祝いが行われ、その後で、娘の義理の兄が娘に投げかける一瞬の視線にきづいた死刑執行人が、あわてて娘を学校に行かせることをやめさせるという出来事が描かれていたのだった。

それが、役人の語る物語のなかに、死刑執行人の意識のプリズムを通して、屈折した形で入り込んでいたのである。その一方で、この物語は、死刑執行人が最後に行った死刑、無実の人間を処刑してしまったという死刑を思い出させるものでもあった*1


役人の話をそこまで聞くと、死刑執行人はたまらず、もういい、聞きたくないと言うのだが、役人は、お前が明日処刑する男こそ、今話した物語の若者なのだぞと、こともなげに言ってのける。犯人が無実だとわかっていながら、処刑は行われるのだ。それを聞くと、死刑執行人は突然卒倒してしまう。死刑執行は、結局、彼の息子の手にゆだねられることになる。この息子は、『マン・オブ・ザ・ストーリー』の主人公のような新世代の若者で、ガンジー主義者であったのだが、彼が淡々と父親の仕事を引き受ける場面で映画は終わる。最後に現れる、「マハラジャの恩赦が与えられたが、すでに処刑は実行されてしまっていた」という字幕がむなしい。


この映画に描かれる死刑執行人の姿は、『ねずみ取り』の無能な主の姿とも重なる。彼もまた、自分の存在に何の疑いも抱かず、あるいはそれに眼をふさぎ、狭い世界に閉じこもって生きたのだが、いったんそこにほころびが生まれると、酒におぼれ、よりいっそう己のうちへと閉じこもってゆくことしかできない。

表面的には、死刑への疑問を呈した形となっているが、『マハバーラタ』の挿話から取られたらしいタイトルには、この物語の射程がもっと広く、深いものであることが暗示されている。死刑執行人の息子、おそらく死刑には反対の立場であるはずの彼が、無実と分かっている犯人の処刑を引き受けるのは、この『マハバーラタ』の挿話が下敷きになっているのだろう。



3作とも極めてペシミスティックな内容である。それだけに、わたしは今、ゴーパーラクリシュナンの『壁』という映画のことがとても気になっている。タイトルからしてもう、『ねずみ取り』に近いものを感じさせる映画であり、すぐさま幽閉の物語を予見させる。しかし、わたしが気になるのはそこではない。

ヴェネチアでこの作品を見ていたく感動した蓮實重彦が、「ここでの驚きは、これまでの彼の作品に色濃く漂っていたペシミズムが影をひそめ、一人の男が投獄され、閉ざされた場での時間をゆっくりと生き、やがて自由の身になるまでを、むしろ楽天的ともいえる明るさで描いていることだ」と書いているのを読んだからだ。それはたしかに、わたしの知るゴーパーラクリシュナンとは少しイメージが違う。ぜひ見てみたいのだが、残念ながらまだその機会に恵まれていない。

*1:この映画の後半の語りのねじれを、だれかがリンチの『マルホランド・ドライブ』と比較していたが、それもあながち的外れではないように思える。