明るい部屋:映画についての覚書

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

アンドレ・ド・トス『おとし穴』――郊外のフィルム・ノワール


アンドレ・ド・トス『おとし穴』(Pitfall, 48) ★★½


ディック・パウエル演じる保険会社の調査員ジョンが、会社の金を横領したかどで逮捕された男の愛人モナ(リザベス・スコット)の住む家を訪ねる。男が女に貢いだ品物のリストを作って、損失の一部を回収するためだった。ジョンは、その魅力的な愛人を一目見た瞬間から彼女に惹かれ、たちまちにして二人は深い関係になる……。

この出だしは『深夜の告白』をすぐさま思い出させるが、似ているのはここまでに過ぎない。『深夜の告白』のフレッド・マクマレーとは違って、ジョンには妻子がある。ジョンとモナの不倫、そこにモナの服役中の夫と、モナに横恋慕している不気味な探偵マックが加わり、事態はしだいに緊張感を増してゆき、ついには悲劇的な結末を迎える。


この映画は、ジョンの妻がフライパンで朝食の玉子焼きを作っているショットから始まる。閑静な郊外の住宅街にある、緑の芝こそなかったかもしれないが、きれいに整地された一戸建。ジョンはこの郊外の家に、妻(ジェーン・ワイマン)と一人息子の3人で住んでいる。そして、この映画のクライマックスの舞台となるのは、フィルム・ノワールとしてはいささか異例な、この家庭のただ中なのだ。

アメリカでは、第二次大戦後になって都市の人口が急速に郊外へと流れ始める。この映画が撮られた48年はちょうどその頃だ。ジョンが住む郊外の家には、まだテレビはないし、芝刈り機も出てこない。われわれが知っている郊外のイメージが定着するのはもう少し先、50年代に入ってからである。しかし、郊外に住む幸福な中流家族というイメージはすでに出来上がっていたはずである。

たしかに、冒頭の玉子焼きのショットは、そんな郊外のささやかな幸福を予感させるものだ。しかし、小さなほころびはすでに見え隠れしている。「朝食をテーブルに置いたわよ」という妻に、「テーブル以外のどこにおくんだ」とジョンは答える。毎朝9時ちょうどに家を出て、夕方5時50分に家に帰ってくるという決まりきった生活におれはうんざりした。自分がなんだか「歯車のなかの歯車のなかの歯車のひとつ」に過ぎないように思える、とジョンは言う。あなただけじゃない、5千万の人がそういう歯車のひとつなのよと言う妻に、おれはそんな5千万の人間と同じになりたくないとジョンは反論する。

「妻:あなたはジョン・フォーブス、平均的アメリカ人。この国のバックボーンなのよ。
ジョン:おれは平均的なアメリカ人にも、この国のバックボーンにもなりたくない。誰か他の人間がバックボーンになって俺を支えてほしい*1。」

愛する妻と子がいて、決して金持ちではないが暮らしに困っているわけではない。しかし若い頃に夢に見ていた生活とは、現実は大きくかけ離れている(「学生時代にクラスでおれは、成功しそうな男ナンバーワンに選ばれてたんだ。そんな男には何か起きてもいいだろ?」「あたしと結婚したじゃない?」)。この平均的アメリカ人ジョンの心の隙間に入り込んできたのが、ブロンドの美女モナ(リザベス・スコット)だったというわけである。

なるほど、一人の男の人生を狂わせてしまったという意味では、『おとし穴』のリザベス・スコットファム・ファタールと呼ぶべき存在であるかもしれない。しかし、興味深いことに、この映画の彼女は徹底的に善良で、何の落ち度もない人間として描かれているのである。ディック・パウエルと不倫するのも、最初は彼が結婚していると知らなかったからであり、そのことがわかったとたんに彼女は身を引く。彼女に落ち度があったとすれば、それは彼女が人よりも魅力的だったということだけだ。これもまた、フィルム・ノワールにおいては異例といっていいことかもしれない。『ローラ殺人事件』のジーン・ティアニーにしても、この映画のリザベス・スコットにしてもそうだが、ファム・ファタール=「男を惑わす悪女」(峰不二子的な?)という紋切り型のイメージはぜんぜん正確でないということが、改めて確認される。

この映画において、ついには人を殺してしまうことになるジョンは、結局、正当防衛で罪を免れ、家庭も寸前で崩壊することなく守られる。しかし、正当防衛はしぶしぶながらという形で与えられるに過ぎないし、妻の許しも、いわば新たな試練として課されるだけだ。その意味で、この映画は因習的なモラルを説く教訓的な映画としてみることができる。

一方で、何の落ち度もなかったにもかかわらず、男たちの欲望の対象となったがために、ついにはこちらも人を殺すことになってしまったモナの方は、ジョンとは対照的に殺人罪で起訴されることになる。たしかに、彼女の殺人は、到底正当防衛とは認めがたいものであったわけで(武器を持っていない相手を後ろから撃っているのだから)、その意味では、この裁かれ方は正当であるといえるのだろうが、ここには、同じ不倫の当人でありながら、男性よりも女性のほうが世間から批判されてしまうという、現在でも認められる理不尽な現実が反映されていると見ることもできるだろう。

全体的に明暗のコントラストに欠ける画面はフィルム・ノワールらしくない。唯一、クライマックスの郊外の家のシーンだけが深い闇に包まれ、ノワール的なキアロスクーロで撮影されている。その意味でも、この映画は郊外のフィルム・ノワールとして記憶されるべき作品である。


最後に、この映画で最も重要な登場人物の一人といっていい探偵マックを演じているレイモンド・バーについて一言。レイモンド・バーといえば、数多くの作品で活躍してきた名バイ・プレイヤーだが、それこそが名脇役というべきか、気がつけばそこにいるといった感じで、正直言って、あまり意識したことのない俳優だった。しかし、この映画で、今で言うストーカーを演じる彼は、実に不気味で薄気味悪く、童顔といっていいような顔とアンバランスな巨体という独特な容姿とあいまって、強烈な印象を残す。この映画の彼の存在感は、『裏窓』の殺人者役以上だといってもよいかもしれない。


少し地味かもしれないが、郊外の存在、善良なファム・ファタールなど、ユニークな部分が数多く、フィルム・ノワールの隠れた傑作といってもいいだろう。


*1:この場面に限らず、この映画のなかには立ち止まって考えてみたくなる印象的なせりふが数多く出てくる。