アルトゥーロ・リプスタイン『純粋の城』(El castillo de la pureza, 73) ★★½
メキシコ映画史に残るカルト作品。
これはたぶん実話の映画化なんだろうなというのは、見ているときになんとなく感じてはいた。信じがたい事件を描いてはいるが、もし本当の話だとしても不思議ではない。はたして、やはり実話だった。
これもまた幽閉と狂気の物語である。
外の世界は薄汚れ、腐敗しており、悪に満ちていると考えた父親が、妻と子供たち(一人息子と、娘2人)を外の世界から遮断し、家のなかに閉じ込めて育てる決心をする。テレビやラジオはむろん、外に向かって開かれた窓さえ一つもないこの家のなかで、いわば純粋培養された子供たちは、悪を知らず、汚れない大人へと育つはずだ。父親のこの考えに妻は同意し、彼をサポートする。父親は子供たちに、道徳と教養を教え込み、言うことをきかないときは、地下にある檻の中に閉じ込めて折檻する。しかし、この「純粋の城」*1のなかで育った子供たちは、はたして彼が思っていたような無垢の存在に育ったのだろうか。そもそも、この父親そのものが悪だったのではないのか……。
映画が始まるのは、この驚くべき生活がすでに10数年つづいた頃あたりである。一家が住んでいたのが辺鄙な一軒家などではなく、いくつもの住居が並ぶ中心街の一角であったことに驚く。
カフカの『審判』に出てくる扉を思い出させる巨大な玄関扉を開いて入ると、そこは吹き抜けの広々とした中庭になっている。中庭の向こう、画面奥に、仕事部屋と居間が並んで見える。中庭を囲むように、二階にも部屋がいくつかあり、夫婦と子供たちがそこで寝起きしている。窓はどこにもなく、ここと外をつなぐ唯一の通路は玄関の扉だけである。この通路を通って外に出て行くことができるのは父親しかいない。外の世界を知らない子供たちはもちろん、父親と出会うまでは外で暮らしていた妻も、彼と結婚してからはこの家の外には一歩も出たことがない。
広い中庭には、冒頭からずっと、雨が降りしきっている(この雨は、現代にこの黒いノアの箱舟を出現させた大洪水だったのだろうか)。父親がいないとき、子供たちは濡れるのもかまわず雨の中で遊び回る。それが彼らの唯一のレクリエーションなのだ。そんなとき妻も、まるで子供に戻ったように彼らと一緒に遊び回る。しかしその光景は天上的なイメージ(例えばラングの『メトロポリス』に描かれていたような)とはほど遠い。負けた相手がなにかのポーズを取らされるという戯れに始まったゲームで、息子はいやがる母親に「死のポーズ」を強要する……。
いかにもメキシコらしいことだが、この映画には死が充満している。一家の暮らしを支えているのは、ネズミ駆除用の毒薬の売り上げであり、子供たちは毎日欠かさずその毒作りを手伝っている。まだ年端のいかぬ末の娘も、新しい毒の効き目を試すためにネズミに毒を与える実験を、平気な顔でやってのける。しかし、最近はもっと手軽なねずみ取りが市場に出回り始め、毒薬の得意先が減り始めてきたことに父親は危惧の念を抱く。
彼が築き上げたこの城に迫る脅威は、そんなふうに外側からやってくるだけではなかった。この城にはすでに内側からひび割れはじめていたのだ。自分は、外に出かけたときに、得意先の店の女を口説いたり(結局、相手にされないのだが)、時には娼婦を買ったりしているくせに、父親は、上の娘が知らず知らずのうちに男を惹きつける性的な魅力を現しはじめたことに、恐怖にも似た怒りを覚える。しかし、そういう話題にはなにも触れずに来たために、子供たちはセックスがなにかもあまりわかっていない。あるとき、息子と上の娘が中庭に置かれた車(一度も動いているのを見たことがない)のなかで互いの体をまさぐり合っているのを見て、ついに父親の狂気は歯止めが利かなくなる……。
幽閉と狂気。世界を脅かす存在=ネズミ。この映画には、ゴーパーラクリシュナンの『ねずみ取り』と不思議と似ている部分がたくさんある。この映画の父親も、自分こそが駆除されるべき存在であることに全く気づいていない。もしも、これが実話でなかったなら、彼はきっと己の作ったネズミ用の毒によって死んでいたのに違いないだろう。
この物語のなかに、父権的な独裁政治やマチスモ、あるいは狭量な思想や政治に対する批判を読み取ることはいくらでも可能であるにちがいない。しかしなにも語ろうとしないこの映画をあれこれ解説するのも野暮というものだろう。
アルトゥーロ・リプスタインは43年にメキシコに生まれ、未だに(?)メキシコで映画を撮り続けている。彼はブニュエル作品で助監督を務めるなどして映画の修行をしたことになっているが(日本版のウィキペディアの短い記述のなかにもそう書いてある)、実際には、ブニュエルのアシスタントをしたことはなかったようだ。ただ、ブニュエルとは友人として長い付き合いだったことは本当で、それが彼の映画作りに影響を与えたことは間違いないだろう。『純粋の城』に漂っているペシミズムには、ブニュエル作品の人を食ったユーモアや、トリュフォーいうところの「陽気さ」が欠けてはいるが、ブニュエルの精神はたしかに受け継がれているように思える。(ちなみに、この映画で父親を演じたクラウディオ・ブルックは、『若い娘』『砂漠のシモン』など、ブニュエル作品の常連だった俳優だ)*2。
わたしが見たリプスタイン作品はまだ数えるほどしかない。もう少し作品を見たあとで、彼についてはまた改めて書きたいと思う。
*1:映画の原題。オクタビオ・パスによるマルセル・デュシャン論のタイトル、『マルセル・デュシャン、あるいは純粋の城』から取られたという。
*2:ブニュエルの自伝『最後の吐息』には、72歳になったブニュエルが80過ぎのフリッツ・ラングの自宅に招かれ、長年敬愛してきたラングに初めてあった興奮から、生まれて初めて人にサイン入りの写真をねだるという行為に出たエピソードがユーモラスに語られている。その時貰った2枚の写真は「例によって」今はどこにあるのかわからないが、おそらくそのうちの1枚は「アルトゥーロ・リプスタインというメキシコ人の監督にあげたのではないかとぼんやり記憶している」と書かれている。