明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

リチャード・クワイン『媚薬』『求婚専科』


リチャード・クワインのことなどいまさら話題にしてもさして興味を引かないだろうことはわかっている。たしかに偉大な監督とはいえないだろう。つまらない作品もたくさん撮っている。しかしわたしはかれが撮った何本かの作品が本当に好きなのだ。とりわけ『殺人者はバッヂをつけていた』『媚薬』『逢う時はいつも他人』、それに『悪名高き女』といった作品が。

「偉大な映画作家たちのひそかな核心を分析するあまり――その分析はたいていの場合成功しているのだが――、魅力、感受性、繊細さといった〈マイナーな〉資質がまったく無視されるようになってしまった。ラングやプレミンジャーやミネリにおいて、そうしたマイナーな資質が仕方なく認められることはある(そうした資質はかれらにおいては超越されているからだ。だれもいまさらミネリを、バレエの演出のことで褒めはしない)。だが、それらが演出全体の最終目的となってしまっている映画監督たちにおいては、そうした資質は軽蔑されるのである。名前を挙げるなら、チャールズ・ウォルターズジョージ・シドニー、とりわけリチャード・クワインといった監督たちだ。なかでもクワインの『媚薬』と『逢う時はいつも他人』は、繊細さ、優雅さ、上品さの驚くべき結晶である」

カイエ・デュ・シネマ」1962年8月号に掲載された「リチャード・クワインを導入=紹介する」という、クワインのインタビュー記事のなかでベルトラン・タヴェルニエは上のように書いている。たしかに、ウォルターズ、シドニークワインといった監督たちは、「作家」と呼ぶには弱々しく思え、「カイエ」の作家主義とはあまりなじまなかったものたちだったと言えるだろう。

こういうインタビューが行われていたわけだから、リチャード・クワインは「カイエ」で決して無視されていたわけではない。ゴダールは1956年のベストテンの10位に『マイ・シスター・アイリーン』を選んでいるし*1セルジュ・ダネーも『求婚専科』についてのレビューを書いたりしている。しかし、クワインが「作家」として認識されていたかどうかと言うと、それは非常に疑わしく思える。2000年代になっても、『媚薬』がリヴァイヴァルされたり、『逢う時はいつも他人』が DVD 化されたりした際にクワインが「カイエ」で取り上げられたことが、わたしが記憶しているだけでも数回あった*2。しかし、やはり再評価と呼ぶにはまだ程遠い段階であるというのが、今のリチャード・クワインの現状であろう。


『媚薬』(Bell, Book, and Candle, 58)★★½

「―今までなにをやって来たんだい? まさか非米活動かなんかに関わってたんじゃないだろうね?
―いいえ、わたしは生粋のアメリカ人よ。大昔からいるアメリカ人」

「あなたはわたしに素敵なものをくれたの。わたしを不幸にしてくれたのよ」


まだまだ重要な作品を見逃しているのだが(とりわけ『マイ・シスター・アイリーン』『スージー・ウォンの世界』『ホテル』。特に『ホテル』)、わたしが見たなかでは、『媚薬』は、『殺人者はバッヂをつけていた『逢う時はいつも他人』などと並ぶクワインの最高傑作といってよいだろう。

雪のちらつくニューヨーク。通りに面した怪しげなアンチーク・ショップのショーウィンドーがまず映し出される。場面が店内にかわり、棚や壁一面に並べられたアフリカのものらしき不気味な仮面や木彫りの彫刻をキャメラがなめるように画面に収めてゆく。ただのレプリカだとは思うのだが、どう見ても本物にしか見えない。昔の大映映画などを見ていても思うのだが、美術の小道具が、小道具とは思えない存在感を持ってそこにあるという感覚。こういう感覚は、最近の映画を見ていて抱くことはほとんどなくなってしまった。このアンチーク・ショップのオーナー(実は魔女)を演じる主役のキム・ノヴァクさえまだ登場しないこの出だしの数ショットを見た瞬間から、わたしはこの映画にすでに魅せられはじめている。

恋をすると魔力を失ってしまう都会の魔女(キム・ノヴァク)が、同じマンションに住む男(ジェームス・スチュワート)に恋をしてしまう……。ルネ・クレールの『奥様は魔女』を思い出させもする陳腐な物語ではある。しかしクワインが見せる上品で繊細な演出、ジェームス・ワン・ハウがこの上なく美しいカラーで捉えてみせる雪の舞うニューヨークの街路、ワイルダー作品に比べればずいぶんと抑えた演技をしていて好感の持てるジャック・レモン、そして何よりも、美しさと怪しさの化身のように現れるキム・ノヴァクの、力強くもありまた弱々しくもある可憐な姿を見れば、だれがこの映画を嫌いになれるだろうか。

ヒッチコックの『めまい』と同じ年に、同じノヴァクとスチュワートを主演にして撮られたこの映画を、ベルナール・エイゼンシッツは「『めまい』のオプティミスティックなヴァージョン」と評していた*3一人二役を演じるキム・ノヴァクに『めまい』のスチュワートが魅惑されると同時に引き裂かれるように、『媚薬』のスチュワートもまた、魔女としてのノヴァクと女としてのノヴァクという彼女の持つ二面性に翻弄される。

この映画には『めまい』のような螺旋階段も出てこないし、むろんキム・ノヴァクが高いところから落下する場面もないが、マジソン・スクエア・パークを遙かに見下ろす映像に画面オフから声が重なり、つづいてフラットアイアンビルディングの屋上でキスし合うノヴァクとスチュワートが現れ、やがてスチュワートがビルから投げ捨てた帽子が、ゆっくりゆっくりと落ちてゆき、雪に濡れた舗道に着地するまでを、キャメラがパンダウンして画面に収めるシーンが忘れがたい。

キム・ノヴァクが着る赤や全身黒の衣装も注目に値する。コスチューム担当は、ジャン・ルイ。『ギルダ』のあのエロティックな長い手袋をデザインした人物だ。


有名な話なので改めて書く必要もないと思うが、監督のクワインキム・ノヴァクは当時恋人関係にあった。ふたりは『殺人者はバッヂをつけていた』『媚薬』『逢う時はいつも他人』と作品を連発するが、そのあとキム・ノヴァクが『黄金の腕』で共演したフランク・シナトラのもとに走ってしまう。破局した後で二人はもう一本『悪名高き女』という映画を撮るのだが、そのなかでクワインはノヴァクに、夫殺しのうわさのある女を演じさせるのだ!


『求婚専科』(Sex and the Single Girl, 64) ★★


ゴシップ誌の独身記者(トニー・カーチス)がスクープ記事をものにするために、身分を偽り、患者として売れっ子の女精神科医ナタリー・ウッド)に近づく。記者は、うまく患者のふりをするために友人夫婦(ヘンリー・フォンダローレン・バコール)の抱えている問題をまるで自分のことのように女医に話して聞かす。記者にすでに惹かれはじめていた女医は、かれが既婚者だと思い込んで悩む……。

原題はたしか原作通りだったと思うが(物語に登場する女医が書くベストセラーのタイトルも同じ)、扇情的なタイトルが想像させるようなきわどい部分はまったくない。

映画の前半は、ナタリー・ウッドトニー・カーチスといった新世代の俳優たちによるアステア=ロジャース風のロマンチック・コメディ。嘘と誤解によって話がこじれてゆき、クライマックスは思いもかけない大カー・チェイスになる。関係者全員と、タクシー運転手や白バイ警官などが入り乱れ、乗り物を奪い奪われ、奪い返してのスラップスティックな大活劇は、なかなか面白いと言えば面白いし、古めかしいと言えば古めかしい。

こういうロマンチック・コメディはクワインが得意としたジャンルで、数多くの作品を撮っているが、わたしの印象では、こういう映画を撮っているときのクワインがいちばんつまらない。しかし、そのなかではこの『求婚専科』は最も成功した作品のひとつであるとは言えるだろう。


ほんとうは、『殺人者はバッヂをつけていた』『逢う時はいつも他人』『悪名高き女』についても書きたいところだが、いずれも見たのはだいぶ前なので、記憶があやふやな部分も多い。また見直したときに、改めてクワインについては論じたいと思う。

日本語でクワインについて書かれた文章はほとんど記憶にないが、『殺人者はバッヂをつけていた』については、山田宏一『新編 美女と犯罪』所収の「キム・ノヴァクはバッヂをつけていた」という素晴らしい文章のなかでふれているので参照のこと。

*1:ちなみに、この年のゴダールのベストテンは、1.『アーカディン氏』 2.『恋多き女』 3.『知りすぎていた男』 4.『バス停留所』 5.『悪の対決』(アラン・ドワン) 6.『アナタハン』 7.『抵抗』 8.『不安』(ロッセリーニ) 9.『ボワニー分岐点』 10.『マイ・シスター・アイリーン』

*2:実を言うと、わたしがクワインという監督に初めて興味を持ったのは、ステファン・ドロルムが『逢う時はいつも他人』について分析した文章、というよりも、それに付されていたこの映画のワン・シーンから取り出された連続写真を見たときだった。まるでダグラス・サークの映画のような影の濃いカラー画面にとても興味を引かれたのだった。

*3:出典は不明だが、ジョナサン・ローゼンバウム『Goobye Cinema, Hello Cinephilia』所収のキム・ノヴァク論にそう書かれている。