明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ノエル・ブラック『やさしい毒草』


小さい時にテレビで見た映画のなかには、タイトルも、だれが出ていたかも全く思い出せないが、いつまでも記憶に焼き付いて忘れられない作品がある。物語の詳細はほとんど忘れてしまっているのに、ある細部だけが強烈に記憶に残っていて、その細部が何度も繰り返し甦ってくる。ひょっとしたら、そのイメージが今の自分の精神のありように少なからぬ影響を与えているのではないかとさえ思う。いかし、それがなんの映画だったかだけは全く思い出せない。そんなトラウマ的と言ってもいいような幼少期に見た映画の想い出を、だれでもいくつか持っているのではないだろうか。

もしかすると、ネットで調べればいまなら簡単に作品名が突き止められるかもしれないのだが、曖昧な記憶の状態をなぜだか終わらせたくなくて、あえて自分からは調べない。しかし、ごくたまに、偶然そんな映画と巡り会ってしまうことがある。見る前に少し予感はあったのだが、今回(たぶん)はじめて見たノエル・ブラックの『かわいい毒草』は、そんなわたしのトラウマ的映画の一つにとてもよく似ていたのだった。ただ、結末が(というか、結末しかほとんど覚えていないのだが)、わたしの記憶の中の映画とは違っているのだ。たぶんあの映画とは別物なのかもしれない。しかし、そうであるような気もする。とにもかくにも、まだ物心がつかない頃にこの映画を見ていたなら、きっとトラウマになっていたことは間違いない。そんな映画である。


ノエル・ブラック『かわいい毒草』(Pretty Poison, 68)
★★


allcinema の解説には、

「主人公の青年は、現実と空想の区別がつかない、一種の異常性格者だった。勤め先の町工場が、秘密組織のアジトであると思い込んだ彼は、ガールフレンドを伴って、陰謀を阻止するために工場に忍び込む。ところが、彼女が夜警を殺してしまったところから……。倫理観の欠如した悪魔的な少女によって破滅する青年を描いたサイコ・ホラー」

と書いてあるが、例によって、実際の作品とは全然あっていない不正確な説明だ。

わたしが見た印象では、アンソニー・パーキンス演じるこの映画の主人公は、空想に極端にのめり込むことはあるものの、むしろ好青年と言っていい人物に描かれている。これを「異常性格者」と呼ぶのはどうかと思うし、「現実と空想の区別がつかない」という紋切り型にもうんざりする。「異常性格者」という言葉は相当に重い言葉だし、いくら映画の話だからといって、そんなに簡単に使わないでもらいたいのだ。

この文章は、たぶん、実際には作品を見てない人間が書いたのだろう。それなら仕方がないと思うのだが、実際に見た人の感想をネットでちょっと調べてみると、やっぱりこの allcinema の解説に近いようなことを書いている人が多くて違和感を覚える*1

こういう解説に簡単に影響を受けてしまう人が多いのだろうか。やはり「異常性格者」という言葉や、それに近い表現を使っていて、この映画のパーキンスに「怖い」という印象を受けている人が少なからずいるようなのだ。空想癖が強いぐらいで「異常性格者」になるのなら、『LIFE!/ライフ』のベン・スティラーなどもろに「異常性格者」ではないか。人とちょっと違っているだけで、こんなに簡単にキチガイ扱いする人がたくさんいるのかと思うと、そっちのほうがよほど怖い。たしかに、この映画が作られた当時なら、パーキンス演じる青年が狂人と見なされてしまう可能性はとても高かったと思う(実際、映画は彼が精神病院から出てくるところから始まるのだし)。しかし、なにも21世紀を生きている我々までが真似をする必要はないではないか。

「現実と空想の区別がつかない」という表現もつい簡単に使ってしまいがちだ。この映画のパーキンスは、たしかに空想にのめり込みがちではあるが、空想と現実の区別はちゃんとついている。それは見ていたらわかるはずだと思う。チア・ガールの女性に自分は CIA の情報員だと言うのも、彼女の興味を惹くための演技だというのは、彼の表情やしぐさを見れば察しがつく。しかし、これも、彼が本当にそう思い込んでいるのだと思って見ている人がいたのでびっくりする。


一見まともに見えたチア・ガールの娘が、実は、それこそ狂気と呼べそうな深い闇を抱えていることがわかってくるというのが、この映画の物語後半のツイストで、そこの部分は当然多くの人が指摘している。しかし、わたしにいわせると、この映画に面白みがあるとするなら、それは、青年が「倫理観の欠如した悪魔的な少女によって破滅する」という紋切り型の物語ではなく、精神的に不安定だった青年が、真の狂気を前にして、徐々に正気を取り戻してゆき、最後は、悟りきったかのように穏やかな表情になって、自らの意思で精神病院に戻ってゆくという展開にあるのではないかと思う。しかし、そういう見方をしている人はあまりいないようだ。


最後に、ホラー映画史的な蛇足を付け加えるなら、この映画はホラー映画の中でも、いわゆる"horror of personality"(「人格ホラー」)と呼ばれるサブジャンルに属する作品の一つに数えられる。ホラー・オブ・パーソナリティとは、吸血鬼や幽霊などといったモンスターや超自然現象ではなく、人間そのもの、その中に潜む狂気を描いたホラーのことだとひとまずはいっておく。もっとさかのぼることも可能かもしれないが、一般には、ヒッチコックの『サイコ』(60) がその最初の典型的な作品とされる。これにアルドリッチの『何がジェーンに起ったか?』(62)、『ふるえて眠れ』(64)、ウィリアム・キャッスルの『血だらけの惨劇』(63) 、ワイラーの『コレクター』(65) といった作品がつづく。『かわいい毒草』は60年代の初頭に現れ始めたこれらの作品の延長上に作られた作品だと言っていい。一見、あまり似ていないが、過去の犯罪(あるいは事件)の記憶と、狂気を孕んだ登場人物という点では、いずれの作品も共通している*2

『かわいい毒草』は、60年代末から70年代にかけて作られた青春映画の外見を呈しながら、その実、人格ホラーになっているところが当時としては斬新だったと思われるし、『サイコ』のパーキンスのイメージを逆手にとって観客を誘導するような作り方もなかなかスマートだ。傑作だとはいわないが、面白いし、見て損はないと思う。


*1:どうしてこんな映画を見ている人がたくさんいるのだろうと思ったら、町山智浩の『トラウマ映画館』の中で取り上げられたことが大きかったようだ。実は読んでいないので、この本の中でこの映画のことがどう書かれているのか全く知らないのだが。ちなみに、わたしが『かわいい毒草』に興味を持ったのは、この町山氏の本ではなく、以前紹介したスティーヴ・エリクソンの『ゼロヴィル』の中でこの映画が言及されていたから。

*2:一方で、この映画には、同年公開のボグダノヴィッチが無差別大量殺人を描いた傑作『殺人者はライフルを持っている!』とも共通する空気が感じられる。動機なき殺人、というよりは、動機が説明されない殺人。一見ごく普通の人間が突然殺人者に変貌するかもしれない世界を生きているのかもしれないという感覚。そこから生まれる恐怖。この新しい恐怖を、ボグダノヴィッチはボリス・カーロフという存在を通して、古い恐怖(映画が作り上げてきた恐怖)と対峙させたのだった。