明るい部屋:映画についての覚書

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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

エリック・ロメール『聖杯伝説』――ブレヒトによって演出されたバスター・キートン?


エリック・ロメール『聖杯伝説』(Perceval le gallois, 78) ★★★


クレティアン・ド・トロワによって12世紀末に書かれた未完の宮廷騎士物語『ペルスヴァル(パルシファル)、あるいは聖杯伝説』を、エリック・ロメールが非常に様式的なスタイルで映画化した実験的映画叙事詩

たぶん、学生時代に京都日仏学館で見て以来だから、そうとう長い間一度も見直していなかったと思う。とてもユニークな映画だから強烈に記憶に残っていたものの、描かれている中世の世界にはあまり馴染みがないし、その表現も独特である上に、英語字幕での上映だったので、当時はよくわかっていなかった部分も多かったことに気づく。

アンドレ・バザンのリアリズム理論のいちばんの心酔者と目されるロメールの作品とは一見とても思えないこの映画は、かれのフィルモグラフィーのなかではひとつだけ浮いている作品という印象があったのだが、ずいぶん後になって『グレースと公爵』、『三重スパイ』などといった歴史物や、『我が至上の愛アストレとセラドン〜 』といった作品を見たあとでは、『聖杯伝説』は決して突然変異的に生まれたものではなく、ロメールの作品世界に確実に属していることがはっきりとわかる。

現代のパリやヴァカンスの地を舞台に恋を語りあう人物たちを、限りなく自然に近い光のなかで描いてみせる……。ロメールの映画がそういうものだと思っている人は、まるでテレビの語学教育番組で使われるようなシンプルな舞台に、プラスティック製の巨大なオブジェのような木(それが数本で森を表している)が立っているだけの抽象的な空間に、数人よりなるコーラスが語り手よろしく古風なフランス語で歌を唄う場面より始まる『聖杯伝説』の冒頭の場面を見れば、自分が今まで見たこともないロメールの世界に迷い込んでしまったことに気づくだろう(当時としては前代未聞に思えたこの映画の試みは、ジョアン・セザール・モンテイロの『シルヴェストレ』(81) やマノエル・ド・オリヴェイラの『繻子の靴』(85) といった作品に、直接的・間接的に受け継がれているといっていい)。

この映画でロメールがやろうとしたのは、ハリウッドで撮られてきた騎士もののように中世の世界をいかにも本当らしくリアリズムで再現することではなく、中世の人々の世界観そのものを映画で表現することだった。そのためにかれは中世の彩色写本の挿絵(ミニアチュール)を参照しながらセットを組み立て、カラーを設計していった。しかし、それは直ちに反リアリズムを意味するわけではない。たとえば、この映画に登場する城(たったひとつの城が、この映画に登場するすべての城に使い回しされているという*1)は、ベニヤ板や段ボールで作られていて、その大きさも、馬に乗った騎士の高さと大差ない小さなもので、現実のスケールを無視している。城壁の色も金色に塗られていて、全然城らしくない。しかし、中世の城というのは実際にそのように色を塗られていたのであり、むしろ、ありふれた歴史映画に登場する本物の城のほうが、今や色がはげ落ちていて、実はリアルではないのである*2

ミニアチュールを参照して作られたことから、この映画はしばしばその画面の平板さを指摘されるのだが、それは正確ではないだろう。たしかに、この映画は全編スタジオで撮影されていて、屋外で繰り広げられる場面でさえ、画面奥にはホリゾントまるだしの空が間近に迫って見える。その向こうに見えない何かが広がっているようにはまるで思えない。ロメールがこの映画で、まだ遠近法の存在していなかった中世の世界観を画面で再現しようとしているのは本当である。ネストール・アルメンドロスらしくないどこにも影を作らない平板なライティングもその印象を助けている。しかし、この映画に奥行きがないというのは正しくない。ペルスヴァルが城の正門をくぐって奥へと進んでいく場面など、アルメンドロスのキャメラは画面手前と奥の事物を深い焦点深度で捉えてみせる。しかし、この映画においては、オーソン・ウェルズの映画でなら深さに繋がったかも知れないレンズの焦点深度が、逆説的にも、画面の二次元性を強調するような表現になっているところが、なんともユニークなのである(「三次元性を誇張することで、三次元性の不在を表す」という言い回しをロメールは使っている)*3

ロマネスク様式がもとになっていると言われる本作であるが、下写真のようなショットにおいては、アルベルティやブラマンテなど、むしろルネサンス建築の影響が指摘され、ある意味、この映画の美学上の統一感を壊していると言ってもいい。ミニアチュールの影響も、クレティアン・ド・トロワの原作が書かれた12世紀末だけでなく、13・14世紀のミニアチュールも参照されていると思われる。ロメールが決して歴史的な再現を愚直に試みたわけではないことには注意しなければならない。



さらには、次のようなショット(実は上写真と同じセットなのだが)では、画面は『カリガリ博士』におけるシュールなセットにかぎりなく近づきさえする。



中世の人たちが見ていたような世界を様式的に作り上げる一方で、ロメールはこの映画で、クレティアン・ド・トロワの原作のテクストにできうるかぎり忠実であることにもこだわった。この映画はクレティアン・ド・トロワのテクストを再認識させるための手段にすぎないとまで、ロメールはどこかで語っている。テーマではなく、原作のテクストそのもの、それが何よりも重要だったのである。既存の現代語訳では満足できなかったロメールは、原文の簡素な文体、八音節詩句など、アルカイックな部分をできるかぎり残したまま、現代人にも理解できるような現代語訳を自らつくった。俳優たちはそのテクストを、台詞をしゃべると言うよりは、朗読するようにして、抑揚のない調子で口にする*4。いちばん驚くべきなのは、ペルスヴァルを始め、登場人物たちすべてが、自らの行動を三人称で語り、それがいかにも自然なかたちで一人称へと移行する(そしてその逆もある)ことだ。

わたし自身はそんなふうに見たことがなかったのだが、この映画について書かれたコメントなどを見ていると、いい意味で、笑える映画だったと語っている人が多いので驚く。人物が自分のしていることを三人称で語るというのも、人によっては笑える部分かも知れない。しかし、今回見直してみて、ナイーヴ(馬鹿に近い意味の)で世間知らずのペルスヴァルを演じるファブリス・ルチーニが無表情に冒険の旅をつづけるのを見ながら、バスター・キートンベケットではなくブレヒトが演出したらこんなふうだったかも知れないとふと思ったのもたしかである(ペルスヴァルが最後に遠ざかってゆくイメージを、たしかロメール自身はチャップリン映画のラストに喩えていた)。そういう意味では、この映画をある種の喜劇だと見なすことは、決して間違いではないのだろう。同時に、『キートンの将軍』のような作品が、喜劇であると同時に叙事詩映画であったことも再確認される。


*1:『O侯爵夫人』では、たった一つの部屋が壁を塗り替えたり、カーテンをつけたりすることで、三つのセットとして使われていたという。『O侯爵夫人』と『聖杯伝説』は、原作の映画化・歴史ものという点で並べて論じられることが多いが、こうしたセットの使い方にも共通点が見られる。

*2:様式化された人工的世界を作り上げる一方で、ロメールは俳優が身につけている兜や鎖帷子などのリアルな質感にはとてもこだわっているように思える。『グレースと公爵』では、デジタルで作り出された映像のなかに人物をはめ込んでいったような人工的世界を描いておきながら、機械織りと手織りでは布の動きが違うと言って、俳優が着るドレスが手織りであることにロメールはこだわったという。ロメールのリアリズムについての考え方は見かけほど単純ではない。

*3:ロメールの「平面」あるいは「タブロー」へのこだわりはこれよりもずっと早い時期から認められる。たとえば、アルメンドロスによると、『クレールの膝』(70) でロメールは、「湖畔の山並みがのっぺりとした青色に見え、色彩がニュアンスのないものになることを望んでいた」という。

*4:ブレッソンストローブ=ユイレの作品における俳優-テクストの関係と比較したくなる部分である。たとえば、「ユリイカ」2002年11月号のエリック・ロメール特集号で、御園生涼子は、ジャック・ランシエールの民衆論をベースに、ロメールストローブ=ユイレのリアリズムのあり方を比較検討し、そのなかで、「テクストの内容・その情報量を何よりも重要視するロメールとは異なり、ストローブ=ユイレはテクストの中に進んで異質なものを招き入れ、その意味を解体寸前まで追いやってしまう」と書いている。