この映画を最初に見たのは、たしか当時たまたま2ヶ月ほど住んでいたトゥールの映画館のフランス語吹き替え版だった*1。わけがわからない映画に見えたのは、自分の語学力のなさのせいだと思っていたのだが、今度数十年ぶりに見直してみて、元々こういう映画だったのだと気づいた。
同じ出来事が別の視点から語り直されるのだけれど、語りの視点となる1人は多重人格者で、ときには妄想と現実の区別も判別しがたく、さらには、唐突にオープニング以前の時点まで時間が遡る場面があったりして、一回見ただけでは物語の流れをちゃんと理解するのも難しいだろう。ちゃんとつじつまが合っているのかどうかも怪しかったりするのだが(いちおう矛盾なく作られているようなのだが)、ここでのデ・パルマは論理的な首尾一貫性などさして気にしていないように思える。ほとんど一瞬たりとも信じがたい物語は、演出を見せつけるためのただの口実にすぎないといっていい。
マッド・サイエンティストの父親がおこなう実験によって多重人格にされてしまった息子ケイン。オリジナルと劣化したコピー。これはまさにヒッチコック=父をコピーし、ヒッチコック的モチーフを分裂させてゆくデ・パルマそのものではないか。そもそも多重人格自体が『サイコ』のテーマである。ヒッチコックへの目配せはこれ以前の作品でも何度も見られてきた。しかし、この作品では、息子を支配する母親ではなく、父親を登場させることで、ヒッチコックとの親子関係にあからさまに自己言及しているという意味で、デ・パルマはある種の宣言のようなことをやっているようにも見える。『アンタッチャブル』や『虚栄のかがり火』など、慣れない映画を撮って失敗してしまったが、やっぱり自分の映画はこれなのだと(しかし、その後の展開を見ると、未だにやはり何がしたいのかよくわからないのだが)。
この作品におけるヒッチコックへの言及は、もはやオマージュと言うよりはパロディというしかないものにまで、あえて極端に推し進められている。ヒッチコックだけではない。クライマックスの乳母車の赤ん坊も、エイゼンシュタインへの言及と言うよりは、『アンタッチャブル』における『戦艦ポチョムキン』のオデッサの階段のシーンへの自己言及にすぎず、『アンタッチャブル』で引用されたときのような社会悪の犠牲となる無垢の存在という一応の解釈さえ許さない、ほとんどパロディに近いものになっている(階段ではなくエレベータで移動する乳母車)。
バカなことをやっているなと思いつつも否定しがたい魅力があるのもたしか。それにしても、デ・パルマはやはりピストルよりもナイフやカミソリを使っているときのほうがいいのではないかと思う。