明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


このサイトはPC用に最適化されています。スマホでご覧の場合は、記事の末尾から下にメニューが表示されます。


---
神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

---

評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

アンソニー・マン『The Great Flamarion』とウィリー・ワイルダーについての覚書


アンソニー・マン『The Great Flamarion』(46) ★★



アンソニー・マンフィルモグラフィーは、フィルム・ノワール時代、西部劇時代、スペクタクル活劇時代の大きく3つに分けられる。『The Great Flamarion』(未公開作品だが、「たそがれの恋」というノワールらしからぬ邦題でも知られる)は、マンが初めて手がけたフィルム・ノワールであり(実は、この前に『Strangers in the Night』(44) というノワールな短編を撮っているのだが)、エーリッヒ・フォン・シュトロハイムが主演していることでも有名な作品である。

製作はビリー・ワイルダーの兄、W・リー・ワイルダー(通称ウィリー・ワイルダー。この作品ではウィリアム・ワイルダーとしてクレジットされている)。これが彼の初プロデュース作品だった。ウィリーは自身でもフィルム・ノワールを多数監督しているわりには、ほとんど注目されていない。しかし、近年、かれは一部の研究者からノワール作家として再評価されはじめている。プロデューサーとしてあのジョン・アルトンに『The Pretender』(47) で初めてフィルム・ノワールを手がけさせ、アンソニー・マンにも最初のフィルム・ノワール(と『仮面の女(Strange Impersonation)』)を撮らせたというこの一点だけでも、フィルム・ノワールの歴史に名前を残して当然の存在であると言っていい。マンは、フィルム・ノワールで才能を開花させたジョン・アルトン*1をすぐさま『Tメン』の撮影に起用し、それ以後のフィルム・ノワール作品のほぼすべてでアルトンにカメラを担当させることになるわけだから、そう考えるとウィリー・ワイルダーが果たした役割はなおさら重要に思えてくる。

射撃の腕前を売り物にヴォードヴィルの舞台一筋に生きてきた初老のさえない男(シュトロハイム)が、悪い女にころっとだまされて、女の亭主(ダン・デュリエ)を舞台の上で事故に見せかけて殺すが、結局、女にはすぐに捨てられる。絶望した男は仕事も捨て、金もなくすが、それでも女を捜し続ける……。

『The Great Flamarion』は、フィルム・ノワールといっても、かなりメロドラマよりの作品であるといったほうがいいだろう。大衆向けの見せ物の世界を舞台に男女のドロドロとした恋愛模様を描いているという点では、ノワールよりもむしろE・A・デュポンの『ヴァリエテ』やスタンバーグの『嘆きの天使』といった作品に近いと言えるかも知れない。

この映画にはマンがアルトンと組んで撮ることになるこれ以後のノワール作品に見られるような深い明暗に彩られた画面もない。しかし、己の欲望に従って男をあやつり破滅させるファム・ファタールの存在、悲劇が起きたあとから過去に遡って語られる運命論的な回想形式、性的な含みを持たされたシンボリックな描写など、フィルム・ノワールの指標といってよいものが数多く見られることもまたたしかである。

妻が愛人に夫を殺させるという物語は、古くはギリシア神話の頃から繰り返し語られてきたものだが(クリュタイメストラとか)、アンソニー・マンはかれの作品としては異例なほどに鏡を多用した端正な画面で(シュトロハイムが射撃を披露する鍵となる舞台の場面にも横長の大きな鏡が使われている)、この陳腐な物語を見るに堪えうるものにしている。

この頃のシュトロハイムはほとんど仕事もなくどん底時代だったはずである。それでもこれだけの存在感を示しているだからさすがだ。芸に厳しい、冷たくて威圧的な芸人というのはいかにもシュトロハイムらしいが、女にころっとだまされてしまうウブな男というのはいつもの彼のイメージとはだいぶ違う。シュトロハイムはこの哀れな男をなかなかの説得力をもって演じているとは思うが、それでもアンソニー・マンの世界に迷い込んでしまったストレンジャーという印象はぬぐいきれない。

ろくでもない女だと知りながら妻に執着する夫役のダン・デュリエは、いつものようなチンピラっぽい役を演じていてあいかわらず素晴らしい。

一方、悪女役のメアリー・ベス・ヒューズは30年代末から多くの作品に出演している女優だが、正直、あまり印象にない(『牛泥棒』などにも出ているはず)。しかし、ここでの彼女は、嘘に塗り固められた顔の表情の素早い変化(シュトロハイムが見ていないと思ったとたんに嫌悪の表情を浮かべたかと思うと、その一瞬あとでは微笑みを浮かべているといったぐあい)など、見事にファム・ファタールを演じきっている。シュトロハイムに夫殺しをそれとなくほのめかす場面で、ピストルをなでるエロティックな仕草が強烈だ。この場面がブリーン・オフィスで問題にされなかったとは不思議である。映画の検閲は、字義通りの言葉や陰部の直接的なイメージなどには敏感だが、シンボリックな表現にはあまり関心がなかったと見える。検閲者というのは、だれにもまして唯物論者なのかも知れない。


*1:彼は実は20年代から撮影監督をしていたのだが、一般に認められるようになるのはフィルム・ノワール作品を撮り始めたときからであった。