明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。































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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ラウル・ルイス『盗まれた絵の仮説』——幻惑する2人の語り手

ラウル・ルイス『盗まれた絵の仮説』★★★½


ピエール・クロソウスキーの奇々怪々な小説『バフォメット』に基づいて、というよりは、この本に緩やかにインスパイアされて作られた映画で、ルイスの名を世に知らしめた初期の代表作である。ずいぶん久しぶりに見直した。

ここに描かれるのは、19世紀に存在したアカデミックな画家トネール*1が残した7枚の絵=タブロー(そのうちの一枚は紛失しているので、正確には6枚)の世界だ。架空の人物であるこの謎めいた画家の絵を所有する、これまた謎めいたコレクターが、絵と絵のあいだの隠された繋がりを探りながら、一見ごく普通に見えるトネールの絵がなぜ当時スキャンダルとなったかを、探偵よろしく推理してゆく。こうしてコレクターが最後にたどり着くのは、かつてテンプル騎士団によってあがめられた、アンチ・キリストの化身とも言われる悪魔的な両性具有神パフォメットの存在だ。トネールの絵はこのバフォメットと関係のある〈儀式〉を表している。いや、その〈儀式〉そのものであるのだ……。

こんなふうに書くと、この作品がまるでトム・ハンクス主演の『ダヴィンチ・コード』や『天使と悪魔』のようなものに思えてくる。むろん、ルイスのこの映画は、そんな映画とは似てもにつかない奇妙奇天烈なものだ。

冒頭、美術館のような館の広間に画架に掛けて並べられたトネールの絵の間を、カメラが縫うようにして移動していくと同時に、謎のコレクターがこの画家について蕩々と語り始める。このコレクターはこの映画に登場するただ一人の人物である。いや、「ただ一人」のというのは正確ではない。コレクターが別の広間に移動すると、そこには、トネールの絵を人間によって再現した活人画*2が繰り広げられているのだ。もっとも、活人画を演じている人間たちは、少しばかり体を揺らしたりして生きていることを証明する以外は、まったく動かず、言葉も発しない。だから、言葉を発し、動き回る人物は、このコレクターだけだというのなら正しいと言える(いや、言葉を発する人物がこのコレクターだけだというのも本当は正確ではないのだが、そのことについては後でふれることにする)。

コレクターが別の部屋に移動すると、そこにはまた別の活人画が繰り広げられている。こうしてかれは、迷路のような館の広間をめぐりつつ、画家の絵と絵、活人画と活人画のあいだに隠された密かな関係を導き出してゆく。鏡による光の反射、2つの太陽……。彼の語る衒学的な言葉は、説得力があるようでもあり、また、デタラメで、途方もないものにも思える。それにしても、活人画とはいったい何なのだろうか。それは絵画以前の存在でもあり、また以後の存在でもある。つまり、絵画がそれを描いたものでもあり、また絵画から生まれたものでもある。そういう意味で、活人画は、オリジナルとコピーの関係を無効にするような存在であり、クロソウスキーがいうところの〈シュミュラクル=摸像〉からも遠くないように思える(しかし、これはわたしの能力を超える話題だ)。こうして原因と結果の時間軸から抜け出すだけでなく、活人画はまた、動と不動、表面と奥行き、物体と生物のあいだの境界をことごとく無効にしてしまう。これだけでもテーマとしては非常に面白いものだが、あまり深入りしている余裕はないのでこれくらいにしておこう。



(チェスをするテンプル騎士団の活人画。窓から差し込んでいる光はどこから来ているのか……。『美女と野獣』のアンリ・アルカンを模したともいわれるサッシャー・ヴィルニーによるモノクロ撮影が見事だ。)

面白いのは、パスカル・ボニゼールも指摘している二人の語り手の存在だ。一人はいうまでもなく、トネールの絵について語り続ける謎のコレクターである。しかし実は、この映画には語り手がもう一人いる。かれは画面オフから声が聞こえるのみで、画面には一度として姿を見せない。かれはコレクターの語る言葉に合いの手を入れたり、ときには反論したりする。しかし、その声ははたしてコレクターに聞こえているのか。一見、声は、ちょうど DVD の映画本編に付けられたコメンタリー音声のように、コレクターとは無関係に話し続けているようにも見える。しかし、コレクターと声のあいだに対話が成り立っているように見える瞬間がないわけではない。

この2人の語り手の存在は、なんとも悩ましい問題を突きつける。コレクターは絵について語り続けるが、かれはいったい誰に向けて語っているのか。見えないもう一人の語り手に向かってか、それともわれわれ(とはいったい誰なのか?)に向かってか。ボニゼールもいっているように、コレクターは一度としてカメラに視線を向けない。これは重要な指摘である。ボニゼールは、この映画をジーバーベルクの『ルトヴィッヒの台所』と比較している。わたしはこの有名な作品を見ていないのだが、この映画は、画面に現れる語り手が、"visite guidé" (ガイド付き訪問)のかたちで、観客をいざなうようにして、ルトヴィッヒの台所を歩き回ってゆくという作品らしい。ボニゼールは、ジーバーベルクのこの作品と『盗まれた絵の仮説』の類似性を指摘しつつ、そこには大きな違いがあるという。それは、ジーバーベルク作品では画面に登場する語り手がカメラをまっすぐに見るということだ。この視線によって、かれはわれわれ観客に向けて語っていることが保証される。一方、ルイス作品においては、コレクターは画面外の世界など存在しないとでもいった態度を一貫してとり続ける。そしてそこに、もう一人の見えない語り手が加わるので、事態はさらに複雑になるというわけだ。



(謎の語り手を演じているジャン・ルージュールは、この映画の撮影直後に亡くなった。)

この映画を見ているときにわたしが思い出したのは、オリヴェイラがキャリアなかばに撮った奇妙な遺作『訪問、あるいは記憶と告白』だった。長年住んでいた家を人手に手放すことになったオリヴェイラがその家で撮り上げた作品であり、当時死を意識していた彼は(その後何十年と生きて100歳を超えることになるとも知らずに)、この映画が自分の死後にのみ公開されることを望んだ。男女2人の訪問者が家を訪れるところから映画は始まる。2人は画面には登場せず、声のみが聞こえる。その家には誰も人がいないように見える。ところがそこにオリヴェイラ本人が現れ、カメラに向かって語りかける。ふしぎなことに、2人の訪問者はオリヴェイラの存在の気配を感じているようではあるが、見えてはいないようであるし、オリヴェイラも彼らの存在には気づいていないようだ。死後に公開されることを考えて作られたことを考慮するならば、この映画に登場するオリヴェイラは自らが亡霊であることを意識して演技していたと言っていいだろう。しかし、見ているうちに観客には、画面に姿を見せている彼の方ではなく、姿の見えない声の持ち主である2人の訪問客こそが、亡霊であるようにも思えてくる。そんな2つの亡霊的存在が語り手であるような、不思議な作品なのである。むろん、いろいろな違いはあるのだが、2人の語り手が存在するという点では、『盗まれた絵の仮説』とオリヴェイラのこの作品は共通している。そしてルイス作品のほうにも、やはり亡霊的雰囲気とでもいったものが漂っている*3

ロラン・バルトは写真について、「写真は一種の活人画であり、動きのない、仕上がった顔のフィギュラションであって、その下にわれわれは死を垣間見るのである」と書いたことがある。写真と活人画の関係というのも興味深いが、写真を通して活人画と死が結びつけられているところがここでの興味を惹く。死は、ルイスの初期作品から一貫して彼の映画のテーマだった。


難解な作品ではあるが、夢と現実がときに複雑に入り交じるルイスの他作品と比べるなら、表面的には非常にわかりやすいと言っていいかもしれない。謎解きをするように話が進んでいきながら、結局、謎を謎のままにして終わるところは人を食っている。そもそも、絵が一枚欠けているのだから、答えが出ないことは最初からわかっているのだ。しかし、本来、作品とはそういうものなのではないか。


ラウル・ルイスについては、度々名前を出しながらあまりちゃんと書いたことがなかった。いずれまた、彼のフィルモグラフィー全体についてまとめて書きたいと思っている。


*1:トネールという名前は、クロソウスキーが画家になる以前に、小説「ロベルト三部作」の1つ『歓待の掟』の中に登場させていた架空の画家、フレデリック・トネールを直ちに思い出させる。登場人物オクターヴの日記の中でこの虚構の画家は、第二帝政時代の女性を描き、クールベ、モネらとも接触があったなどと書かれている。この映画に登場するトネールははたして、このフレデリック・トネールと同一人物なのか。しかし、ジッドからニーチェを経由して「贋造」の概念を独自に発展させたクロソウスキーにとって、そしておそらくはそこから遠くないところで映画を撮っているルイスにとって、自己同一性などといったものがどれほど曖昧で、当てにならないものかを知っているものならば、そのような問いはほとんど無意味であることがわかるだろう。

*2:活人画 tableau vivant を描いた映画はいくつか存在する。いちばん有名なのは、ゴダールの『パッション』だろうか。この映画では、ポーランドからフランスにやってきた監督が、ドラクロワゴヤの絵を活人画として再現する映画を撮ろうとするのだが、満足な光がえられず、女性関係でも様々な問題を抱え、制作は頓挫する。

*3:実をいうと、わたしはオリヴェイラのこの作品を、自分にはちゃんと読めない字幕版でしか見ていないので、細かいニュアンスを取り違えている可能性がある。この素晴らしい小品については、いずれ、どこかで別のかたちで見直す機会があったなら、その時にまた改めて語りたい。