テレンス・デイヴィス『Of Time and the City』(2008) ★★★
「われわれは自分が憎んでいる場所を愛し、そして愛している場所を憎む。愛している場所を去り、そして人生を費やしてその場所を取り戻そうとする」
冒頭、監督のテレンス・デイヴィス自身の声によって語られるこの言葉がすべてを要約していると言っていい。
『Of Time and the City』はデイヴィスが生まれ育った故郷リヴァプールを描いた映画であり、彼が初めて撮ったドキュメンタリーである。この町がヨーロッパの文化首都に制定されたことを記念して企画されたこの映画を、デイヴィスは最初何度か断ったあとでようやく引き受けたという。完成した映画は、8割近くを既存の記録映像、いわゆるアーカイヴ・フッテージを編集して作られたにもかかわらず、きわめてパーソナルな作品となった。
最初、映画館のホールをかたどったフレームがあらわれ、そのスクリーンのカーテンがアニメーションで開くとモノクロの記録映像が現れるところから映画ははじまる。すると、モノクロの映像が本物のスクリーンいっぱいに広がり、高架線を走る列車が駅に着く映像が映し出される(リュミエールの『列車の到着』への目配せ?)。それ自体ではなんでもない記録映像が、編集のリズム、音楽の見事な用い方、なによりもデイヴィス自身の声による文学的といってもよいナレーションによって、魔術的な力を獲得し、見るものをたちまち引き込んでゆく。
1945年生まれのデイヴィスが、少年時代と青年時代を過ごしたリヴァプール。しかしここには、この町のサッカー・クラブの話も出てこないし、ビートルズの映像でさえもクラッシック音楽によってかき消されてしまう。この映画に描かれるのはリヴァプールのオフィシャルな歴史ではなく、時系列を無視して呼び覚まされる記憶のなかに存在するリヴァプールである。その町は、すっかり変わってしまった今現在のリヴァプールにはなく、モノクロのアーカイヴのなかにしか存在しない。もっというならば、それはどこにも存在せず、ただ痕跡をとどめているだけだ。
「今君たちが存在しているように、我等もかつて存在したのだ」
ナレーションのなかで何気なく引用されるジョイスのこの言葉は、『ユリシーズ』のなかで死者たちが語る言葉である。この現在もいずれは過ぎ去ってしまうし、過ぎ去った過去もかつては「いま」だったのだ。だからこの映画は、タイトルが示しているように、都市についての映画であると同時に、時間についての映画でもあるのである。
もっとも、デイヴィスがこの町について抱いている記憶は決して幸福なものではなかった。カトリックの信仰とその放棄、抑圧された同性愛。早くこの町から出て行きたいという思い……。そんなネガティヴな記憶は、この映画に皮肉で、批判的な眼差しをもたらしている。デイヴィスのナレーションは、ときに辛らつに批判し、ときに乾いたユーモアで笑いを誘いながら、常に対象から距離を置いて語りかけてくる。しかし、それでも、そこかしこからあふれ出してくる郷愁の念には心を打たれずにはいられない*1。
デイヴィスは、この映画を作るにあたってハンフリー・ジェニングスの諸作品、とりわけ『Listen to Britain』から大きな影響を受けたことを自ら認めている。音楽のように構成された詩としてのドキュメンタリーという点で、『Of Time and the city』はたしかにジェニングスのドキュメンタリーを受け継いでいるといえるかもしれない*2。
『遠い声、静かな暮らし』『Deep Blue See』といったデイヴィスの劇映画にはそれほど惹かれなかったし、正直、余りよく覚えていないのだが、このドキュメンタリーには素直に感動した。ただ、冒頭からいきなり、エンゲルスだのなんだのを引用してくる気取ったナレーションが少々鼻につくのも確かである。そのあたりで、乗れないという人がいるかもしれないが、必見の作品だといっておこう。