明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

アレクサンドル・メドヴェトキン『新モスクワ』――ユートピアをディストピアに変容させる曖昧な風刺

アレクサンドル・メドヴェトキン『新モスクワ』(Novaya Moskva, 1938) ★★★

『幸福』で知られるロシアの映画監督アレクサンドル・メドヴェトキンのトーキー時代の代表作の一つ。モスクワの都市再建計画が進行中に撮られたこのシュールなコメディは、スターリンを讃える歌が歌われ、空にレーニンとスターリンの顔が星で描かれたりするプロパガンダ映画の体裁を取っているにも関わらず、この共産党指導者の逆鱗に触れ、公開前にお蔵入りにされてしまった(スターリンは公開される映画を事前に全部自分でチェックしていたことで知られる)。

物語は、モスクワから何千マイルも離れた村に住む若きエンジニア、アリョーシャが、党の集会で自分が発明した「モスクワのライブ・モデル」を発表するために祖母とともにモスクワに向かって旅立つ場面から始まる。モスクワ再開発の構想を動きとともに表現するミニチュア模型のシュールな映像にまず度肝を抜かれる。


アリョーシャは同じ列車に乗り合わせたゾーヤに恋をするが、一時停車した駅で、偶然出会った娘が持っていた子豚が逃げ出し、探すのを手伝ううちに列車に乗り遅れてしまう。バルネットの『トルブーナ広場の家』でも、田舎からモスクワにやってきたヒロインの持っていたガチョウか何かが逃げ出す場面がたしかあったはずである。当時のロシアでは、こういうことは日常茶飯事だったのか。

それはともかく、アリョーシャはなんとかモスクワにたどり着き、祖母とゾーヤにも再会する。しかし、そこにゾーヤに思いを寄せる若き青年画家が登場し、さらには画家と子豚娘との間にもロマンスのようなものが生まれ始める……。

登場人物たちがなにかと勝手に歌いはじめるミュージカル調の陽気なロマンティック・コメディ。ひとまずはそう要約できる作品である。それはそれでなかなか楽しめる部分ではあるのだが、この映画の魅力は実はそこにはない。この映画が観客をひきつけてやまないのは、そこにモスクワという都市が、リュミエール的な現実とメリエス的な空想が二重写しになる形で映し出されているからである。


(未来都市モスクワの最後に現れるレーニン像)


すったもんだのあげくアリョーシャはようやく「モスクワのライブ・モデル」を発表することになる。当時は、スターリンの掛け声のもと1935年に開始されたモスクワの再開発計画が、現実に進行中だった。その模様を捉えたドキュメンタリー映像(と、おそらくはセットの中でそれを再現した映像)と、未来のモスクワを描いた空想の絵を使って、来るべきモスクワのユートピア的都市像をプレゼンするはずだったその発表会は、手違いからフィルムが逆回転で上映されてしまい、20世紀のモスクワは一瞬で帝政時代の姿に逆戻りしてゆく。取り壊された古い建物が煙の中から再び立ち上がり、近代的なビルディングはソフトクリーム型のドームを戴いた大聖堂へと一変する。スターリン時代に作られたロシア映画の最もマジカルな瞬間の一つと言ってもいいくらい強烈な印象を残す場面だ。

むろん、フィルムはすぐに正しい方向に上映され始めるのだが、一度革命以前へと逆戻りしたあとで現れた未来のユートピア都市はどこか嘘くさいものにしか見えない。しかも、ユートピアとして描かれるモスクワの未来図には人が一人も描かれておらず、それは時としてディストピアの様相を呈しさえする。スターリンを激怒させたのはおそらくこの場面だろう。


この映画にコミカルな味わいを添えている若き青年画家は、モスクワの町並みを好んで絵のモチーフにしているのだが、悩ましいことに、モスクワの風景は都市開発によって絶えず変貌しつつある。今描いているビルが目の前で破壊されたり、あろうことか、建物ごと引っ張られて視界から消え失せてしまうといった有様で、彼は一度として描きかけた絵を完成させることができない。消え行く古き町並みへのノスタルジーとでもいったものがここにはどうしても感じられてしまうのだが、これもおそらくスターリン政権においては「間違った」イデオロギーだったのだろう*1


他にも注目すべきところは多々あるが、一つ挙げるならば、この映画には、当時完成したばかりのモスクワの地下鉄が、おそらく初めてフィルムに収められていることだ。子豚を持った娘がこの地下鉄に乗るのだが、動物の乗り入れは禁じられているため、彼女は豚に布を巻いて赤ん坊を装う。隣りに座っていたおせっかいな老人(実は医者)が、赤ん坊の変な鳴き声に気が付き、布の中身を垣間見る。顔の色がおかしいという医者に、「麻疹なんです」と女は答え、そそくさと次の駅で下車する。


メドヴェトキンにとっては、こういうステレオタイプなコメディはおそらく本当に撮りたい映画ではなかったのだろう。この映画は、スターリン体制を支持するプロパガンダ映画の体裁を取っている作品でもある。しかし、『幸福』で見せた鋭い風刺は、多少ソフトになってはいるものの、この映画でもあちこちに散りばめられており、それがときとして非現実的なイメージとともに現れるところが実に面白い。カーニヴァルの場面で使われている〈仮面〉と〈人違い〉のテーマは、どちらかと言うとコメディのお約束であり、『幸福』に出てくる仮面のグロテスクな衝撃とは比ぶべくもないのだが、実は、シナリオ段階では、メドヴェトキンはもっとシュールでグロテスクな場面を用意していたようだ。それによると、モスクワ中の人たちがカーニヴァルの仮面をつけて街を歩く場面が撮られる予定だったらしい。残念ながら、完成作品にはそのシーンは出てこないが、それでもこの映画には、都市のカオスがときおり顔をのぞかせており、我々をはっとさせる。


クリス・マルケルの『アレクサンドルの墓/最後のボルシェヴィキ』には、『新モスクワ』のさわりの部分が引用されていて、これを見ればこの映画をある程度見た気になれる。しかし、残念ながら、スラップスティックな豚との追っかけっ子も、地下鉄のシーンも、共産党の指導者を讃えるカーニヴァルも、スターリン讃歌もでてこない(はずである)。


*1:『新モスクワ』がお蔵入りになった明確な理由は推測するしかない。この年、メイエルホリドが「ブルジョア形式主義」を理由に逮捕され、40年に処刑されたことを考えれば、この危険な時代に逮捕されずにすんだだけでもラッキーだったといえるかもしれない。