明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ダグラス・トランブル『ブレインストーム』

ダグラス・トランブル『ブレインストーム』(83) ★★


「いつの日か、映画を作る必要さえなくなるだろう。観客は頭部に電極を埋め込まれ、こっちでどれかのボタンを押すだけで、「おお」とか「ああ」とか言って、驚いたり笑ったりしてくれるようになるんだ。すごいと思わないかい?」(アルフレッド・ヒッチコック



他人の頭の中を覗き見て、何を考え、感じているのか知りたい。そんなことを誰しも一度は考えたことがあるだろう。頭部にヘッドギアを装着した被験者が体験した視聴覚、嗅覚、味覚、触覚、すべての情報が、コンピュータを通じて接続されている人間と共有され、更にはテープに記録されて再生可能になる。『ブレインストーム』は、そんな夢のようなことが科学的に可能になった世界を描いた映画だ。ブレイン・スキャンと名付けられたその研究をクリストファー・ウォーケンらの科学者チームが完成させるところから映画は始まる。しかし、研究はやがて本来とは別の目的に向けられてゆく。セックスをVRで記録したテープをドラッグのように繰り返し再生して廃人寸前になるものが現れたかと思うと、最後はお約束どおりの軍事利用だ。ヴァーチャル・リアリティは洗脳と拷問にかつてないほどの効果を発揮するに違いない(映画の中では、このヴァーチャル・リアリティの軍事利用が「ブレインストーム」計画と名付けられている)。その計画に反対したために研究チームから追い出されたウォーケンは、同僚であり、妻でもあるナタリー・ウッドらと共に会社のコンピュータをハッキングし、計画を頓挫させようと目論むが……。


『ブレインストーム』は、ヴァーチャル・リアリティを最初に映像化した作品の一つである。この一年前に撮られた『トロン』(スティーヴン・リズバーガー監督)ですでにVRは扱われていたが、この作品ほどのリアリティもインパクトもオリジナリティもなかった。『2001年宇宙の旅』、『未知との遭遇』、『ブレードランナー』などの宇宙船や宇宙空間の精緻でリアルな設計によってSF映画を確実に進化させた特撮監督ダグラス・トランブルが自ら監督したこのSF映画は、いつものように精緻なディティールと何よりもそのユニークさによって、彼のもう一本の監督作『サイレント・ランニング』(72) 同様に、SF映画史上に名を残している*1

たしかに、ヴァーチャル・リアルな世界が半ば現実化しつつある今この映画を見ると、多少時代遅れに思えてしまう部分はあるだろう。視覚のみならず、嗅覚や触覚など、五感すべてが第三者に伝わり、まるで本人になったかのように体験を共有できるというのだが、映画の中に登場するヴァーチャル・リアリティの映像は、映画を見ている観客にとっては、要するに、ジェットコースターに乗ったり、食事をしたり、セックスをしたりしている人間を一人称カメラで撮影した単なる2D映像に過ぎないように見える(この映画は今なら確実に3D映画として映画化されたであろう)。

この映画は、視覚と聴覚の体験にすぎない映画でそれを超える体験を表現しようとしているわけだから、これは致し方ないことなのかもしれない。トランブルは、このいわば映画の限界とも言えるものを、あるギミックを使うことでなんとか拡張しようと試みている。そのギミックとは、映画の画面サイズを変化させるという、当時では画期的だった手法だ。無論、これもこの映画が最初ではない。アベル・ガンスの『ナポレオン』がすでにサイレント時代に、三つのスクリーンを自在に使い分けて画面の大きさを変化させる手法(トリプル・エクラン)を試みていた。とはいえ、『ナポレオン』以後、このようなことを試みた映画は殆どなかったのではないだろうか。少なくともこのようなメジャー作品が(『ブレインストーム』はMGM製作の大作である)こういうことを試みたことはなかったはずである。

トランブルはこの映画で、客観的シーンをヴィスタ・サイズで、ヴァーチャルな映像を見ている人物の主観的イメージをシネスコ・サイズで撮影している。この画面サイズの使い分けが理にかなったものであるかどうかはいささか疑問だ。それに、これもまた単に視覚上の変化に過ぎない。とはいえ、この画面サイズの変化によってヴァーチャル・リアルな映像に、現実(リアル)の映像を超える迫力と「リアリティ」がもたらされていると言うことはできるだろう。わたしはテレビで見ただけだが、これを映画館で見たならばその効果は絶大だったに違いないと想像できる。


視覚を超える体験という意味で興味深いのは、ウォーケンの同僚であるルイーズ・フレッチャーが発作で亡くなるシーンだ。彼女は自分が死ぬ瞬間をヴァーチャル映像として録画する。その映像には、死の直前に彼女が感じた激しい苦痛の感覚がそのまま記録されている。この映像を直接目にしてしまったら、彼女が味わったのと同じ発作の苦しみを感じて、ヘタをすると死んでしまうかもしれない(実際、職員の一人はそれで死にかける。やがて軍部はこの映像を拷問に利用しようとするだろう)。さて、その映像というのがちょっと変なのである。例によって、映像ははじめは一人称で撮られているのだが、なぜか彼女が死ぬ瞬間に、天井から彼女を見下ろすアングルに視点が切り替わるのだ。この瞬間も画面はシネスコのままだから、これは彼女が見ているイメージのはずである。このヴァーチャル映像は被験者の脳波を記録したものであるのだから、普通に考えればこれはあり得ない。一人称カメラが人称を失ってしまったとでもいうようななんとも不可思議な場面である。


ウォーケンは、この臨死体験を記録したテープの一部を、見るというよりも体験し、その映像に取り憑かれてしまう。そのテープに対する彼の執着ぶりは常軌を逸している。映画のクライマックスは、ウォーケンらが会社のコンピュータをハッキングしてブレインストーム計画を阻止しようとする姿を描いているのだが、ウォーケンは、ただたんにその臨死体験のテープがどうしても見たいがために、皆を巻き込んで大騒ぎを起こしているとしか見えない。ウォーケンは公衆電話からコンピュータを通じてテープを再生させ、ついにその映像を見ることに成功する。体験のあまりの強烈さからいっとき死の淵をさまよったウォーケンが、駆けつけた妻ナタリー・ウッドが呼びかける声によってこの世に引き戻されるところで、映画はあっけなく終わっている。

後半、ウォーケンのオブセッションが物語を動かしていくところが面白いといえば面白いのだが、はたしてそれが本当にドラマを盛り上げることにつながっているのかというと、ちょっと疑わしい。幕切れも中途半端だ。と思っていたのだが、見終わったあとで、実はこの映画の撮影中にナタリー・ウッドが交通事故でなくなってしまったために、シナリオの変更を余儀なくされたということを知った。具体的にどのような変更がなされたのかはわからないのだが、これでラストの中途半端な終わり方は説明がつく。

大傑作だとは言わない。しかし、実に興味深い作品である。SF映画ファンならば絶対に見逃せない作品だろう。


*1:トランブルのフィルモグラフィーを見ると、この2作以外にもう一本、『Luxor Live』という映画を監督しているようなのだが、IMDb にはなんの情報もなく、だれも見てすらいないようだ。はたしてこの映画は完成していたのか。