明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

『市民ケーン』劇場その3――漫画「ピーナッツ」と『市民ケーン』その3


4月8日
神戸映画資料館 連続講座「20世紀傑作映画 再(発)見」第1回、「『市民ケーン』とは何だったのか」

1984年9月2日

スヌーピーが Pawpet Theater で『市民ケーン』のパロディ(?)『市民ビーグル』を演じる。

すべてを手に入れた男が、すべてを失う。失ったもののなかで彼が何よりも悔やんでいたのは、実は……、というオチ。

スヌーピーによる『市民ケーン』のこの要約は、少なからぬ数の観客によって共有されていたものだろう。たぶんそれは今でも共有されている。ローズバッドと橇、それがこの映画の中心なのだと……。しかし、公開当時にこの映画を見て絶賛したホルヘ・ルイス・ボルヘスはこう書いている。

「『市民ケーン』には少なくとも2つのプロットがある。一つ目のプロットは、無意味なほど平凡なもので、バカな観客から喝采を搾り取ろうとする。それはこういう内容だ。虚栄心の強い大金持ちが、彫像、庭園、宮殿、プール、ダイヤモンド、車、図書館、男や女、すべてをコレクションするが、この大量の寄せ集めは、空しさ以外の何物でもないことを知る。全ては虚しい。死の間際、彼はこの世でたった一つだけのものを欲する。子供の頃に遊んだみすぼらしい橇だ!」

この一つ目のプロットに比べると、カフカニヒリズムに通じるような、「形而上学探偵物語」とでも呼ぶべき第2のプロットのほうが、はるかに優れているとボルヘスは語る。「一人の男の内的自己の調査」を主題としながら、究極的にはケーンが何者でもない影のような存在にすぎないことを示すことで、この映画はこの上なくおぞましい「中心なき迷路」を構成している。『市民ケーン』は「知的なのではなく、この悪しき語の最も陰鬱で、最もゲルマン的な意味において天才の作品である」

1990年4月23日

〈ローズバッド〉と〈橇〉以外の『市民ケーン』の挿話が珍しく具体的に描かれているエピソード。

リディアとライナスが話題にしているのは、エヴァレット・スローン演ずるバーンスタインが、フェリーで見た女の記憶を、記者トンプソンに語る有名な場面。

1993年4月11日

オズの魔法使』のドロシーのセリフから「ローズバッド」というオチ。

1995年10月8日


1991年、50周年を記念して『市民ケーン』がアメリカで再公開され、たった4週間の、それも限定公開だけで、1000万ドルの収入を上げた。これは1941年の公開時の興行収入の合計を上回る額だった。50年という長い時間は要したが、『市民ケーン』は、映画批評やアカデミズムにおける評価だけでなく、当時かなわなかった商業的成功をようやく手に入れたわけである。

しかし、この「ピーナッツ」のエピソードが1973年のエピソードを繰り返しているように、「ローズバッド」の一言で『市民ケーン』は語り尽くせるという風潮は、90年代以後も相変わらず続いている。

(おわり)