オーソン・ウェルズの『市民ケーン』でケーンが自分のために建て、最後に、そのなかで孤独に死んでゆく城の名前「ザナドゥ」が、イギリスの詩人サミュエル・テイラー・コウルリッジによって書かれた叙事詩「クブラ・カーン」Kubla Khan のなかに登場する土地の名前に由来することはよく知られている。
1797年のある夏の日、コウルリッジはその詩を夢で見る。あるいは、夢のなかでその詩を受け取ったといったほうが正しいかもしれない。目が覚めると、彼はその300行からなる詩を書きとめようとしたが、途中で不意の来客があったために、最初の数十行しか記すことができず、残りはすべて忘れ去られてしまったという。つまりは、詩の全容は謎のままに残ってしまったわけである。
「クブラ・カーン」とは、13世紀のモンゴル帝国第5代皇帝の名前である。われわれ日本人には「フビライ・ハン」あるいは「フビライ汗」などといった呼び名のほうがおそらく馴染みがあるだろう。「ザナドゥ」(あるいは「キサナドゥ」*1)とは、このフビライ・ハンが夏の離宮を建てた土地の名前なのである。
興味深いのは、フビライ・ハンもまた、王宮を夢のなかで見、その夢に従って王宮を建設したと伝えられていることだ。しかも、その事実は、コウルリッジがこの詩を書いた頃にはまだヨーロッパでは知られていなかった。なんとも不思議な話である。ボルヘスがこの奇妙な符合に注目したのも不思議ではない。
「最初の夢想者は宮殿の幻を授けられ、それを建てた。最初の夢を知らない2番目の夢想者は宮殿の詩を授けられた。計画が失敗に終わらないとすれば、今から数世紀のちに「クブラ・カーン」を読んで、ある夜大理石像か音楽を夢見るものが現れるだろう。この男は他の二人が夢に見たことを何も知らないであろう。ことによると、夢の連鎖は尽きないのかもしれない。それとも、最後に夢を見るものが全ての鍵を握っているのかもしれない」(ボルヘス『続・審問』所収の「コウルリッジの夢」より*2)。
これで、オーソン・ウェルズが『市民ケーン』を夢で見、夢のとおりに映画を作ったというオチがつけば完璧であったのだが、むろん、話はそこまでうまくできていない。「クブラ・カーン」の冒頭の詩句("In Xanadu did Kubla Khan/A stately pleasure-dome decree")は、映画のなかのニュース映画「ニューズ・オン・ザ・マーチ」のなかでも引用されており、ウェルズのことだから、この詩の内容にもおそらく通じていたのであろう。実際、コウルリッジの詩には『市民ケーン』の内容と奇妙に符合する部分が少なからずあるのである。そもそも、主人公の "Kane" という名前自体が、詩のタイトルにもなっている名前 "Khan" と極めて類似しており、ひょっとしたらケーンという名前のもとになっていたのかもしれない(このことはたしかトリュフォーも指摘していたはずだ)。
しかし、この際そんなことはどうでもいい。「不死の物語」"the immortal story" の観点から見た時、この逸話は『市民ケーン』そのものよりもウェルズの作品全体と深く関わってくるように思える。フビライの建てた宮殿は廃墟となり、それを主題にしたコウルリッジの詩は未完の断章としてのみ残された。廃墟、未完の断章……。これはまるでウェルズの映画を指し示す形容詞のようではないか。『イッツ・オール・トゥルー』、『ドン・キホーテ』、『ヴェニスの商人』、『ザ・ディープ』、『風の向こう側』……。ウェルズのフィルモグラフィーは、まるで未完の断章を集めた廃墟のようである。
ここにもう一つ、『市民ケーン』と関係を持っているかもしれない文学的テクストが存在する。チャールズ・ディケンズの『エドウィン・ドルードの謎』という小説のことである。もっとも、こちらは、コウルリッジの詩とちがって、『市民ケーン』とは極めて緩やかな、いや、荒唐無稽と言っていいほどの、関係しか持っていない。
文豪ディケンズの絶筆となったこの小説は、簡単に言うと三角関係をめぐって起きるある失踪事件を扱った本格的推理小説であり、そして、この物語のヒロインとでもいうべき人物の名前がなんとローザ・バッド(しばしばローズ・バッドとも呼ばれる)というのである。それだけではない。ジャスパーという何を考えているのかよくわからない不気味な人物になかば強要されるようにして、彼女がピアノに合わせて歌を歌う場面が出てくるのだが、ここも、『市民ケーン』のスーザンの歌の練習場面に奇妙に類似している。
しかし、そうした細々とした類似点以上に興味深いのは、この小説もまた、謎を残して未完のままに終わった作品であるということである。ディケンズは、推理小説としてこの小説を書き始めながら、結末の謎解きをする前に亡くなってしまった。エドウィン・ドルードの失踪の謎は、永遠に謎のままに残される。ちょうど、『市民ケーン』のラストで、焼却炉に投げ込まれて燃え上がる橇の表面に「ローズバッド」の文字が一瞬浮かび上がり、たちどころに消えていくことに登場人物たちが誰一人気づかないように、読者はこの小説の真相をもう知ることはできない。
ウェルズはこの小説のことを知っていたであろうし、おそらく読んでもいただろう。とはいえ、この小説が『市民ケーン』に何らかの影響を与えたと考えるのは少々無理がある。ただ、この小説と『市民ケーン』とのいわば荒唐無稽な関係は、「ローズバッド」をめぐって今まで様々に言われてきたもっともらしい説明(いわく、それはウィリアム・ランドルフ・ハーストの愛人であったマリオン・デイヴィスの陰部の愛称であるとか、脚本を書いたハーマン・J・マンキーウィッツが少年時代に盗まれた自転車のことであるとか…)よりは、よほど面白いし、想像力をかきたてる。
「ケーンの秘密とは、彼には秘密がないことだ」と、ウェルズはあるインタビューのなかで語っていた。『市民ケーン』は視覚的イメージとしては驚異的だが、人間が描かれていない。映画に描かれる主人公ケーンの人物像は薄っぺらい、という批判はしばしばされてきた。しかし、それは正しくない。『市民ケーン』は、主人公を空っぽに描いた映画ではなく、空っぽの主人公を描いた映画なのである。そして、ボルヘスがいうように、この映画そのものが「中心のない迷宮」であるとするならば、この映画はそれ故にブラックホールのように様々な外部のテクストを引き寄せ続けてきたのかもしれない。ディケンズの「ローザ・バッド」の物語は、『市民ケーン』の「ローズバッド」がこの映画の中心ではありえないことを逆に証拠立てているのだということもできる。
そんな無数のテクストの中には、ジョージ・デュ・モーリア*3の小説1『トリルビー』から、はては中世の『薔薇物語』*4までが含まれる。『市民ケーン』が不滅である限り、これらのテクストの数はまだまだ増え続けるに違いない。それこそ「不滅の物語」として。