明るい部屋:映画についての覚書

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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

アンリ・ドコワン『家の中の見知らぬもの』――ナチの資本で撮られた仏製ミステリー映画の問題作

アンリ・ドコワン『家の中の見知らぬもの』★★



『十字路の夜』、『パニック』、そしてこのドコワンの『家の中の見知らぬもの』と『La vérité sur Bébé Donge』……。

そのうち、「ジョルジュ・シムノンとフランス映画」という本が書かれねばならないだろう。このベルギー生まれの作家は、今やだれからもフランス人だと思われるほどフランス人の心性に入り込んでいるといっていい。


アンリ・ドコワンがドイツ占領下のフランスで撮った映画『家の中の見知らぬもの』は、ジョルジュ・シムノンが戦前(40年)に発表した同名小説を映画化したものである(日本での DVD のタイトルは単数形になっているが、原題を直訳すると「家の中の見知らぬものたち」になる。この単数形と複数形の違いは作品の解釈にも大きく関わってくる重要な部分だ)。

このミステリー小説は、シムノンの数ある小説の中でもとりわけ陰鬱なものの一つと言われ、当時、この小説を読んだアンドレ・ジッドは、「驚愕した。長い間、私にはこれほど激しい興奮をよびさまされた本がなかった」と絶賛したという。この原作小説を映画のために脚色したのは、まだ監督デビューする前のアンリ=ジョルジュ・クルーゾーだった。その点でもこの映画は興味深い。


小さな地方都市の、雨の降りしきる暗い夜の情景から映画は始まる。ミニチュアで作られた精巧な街のセットをカメラがゆっくりとなめるように映し出してゆく。そこに重々しいナレーション(クレジットされていないが、実はピエール・フレネーの声)によって、散文詩のような説明が加えられる。

「街には雨が降っている。雨だれの音をひびかせる屋根に、水浸しになった庭に。街には雨が降っている。降りしきる雨に木々の影がぼんやりと霞む。街には雨が降っている。土砂降りの中、小さな町は震え、店の鎧戸を下ろす。街には雨が降っている。洪水のごとき雨のなか、嵐に打たれる船のように大聖堂が姿を見せる……。」

モノクロ映画に描かれる街のミニチュアセットに対するわたしのフェチシズムがたぶん大きく作用しているのだろうが、この冒頭のシークエンスが、この映画における最高の瞬間だったように思う。名も知れぬ語り手の声は、このあと何度も映画のなかに現れ、次第に耳障りなものになってゆくだろう。

やがて、場面は、この映画の主人公であるルールサ氏(レイミュ)が娘ニコルと暮らす屋敷のなかへと移ってゆく。ルールサは、かつては名うての弁護士だったが、妻が家を出ていって以来、長年のあいだ、酒に溺れ、生ける屍のようになって、無気力に生きつづけている。一人娘との関係は冷え切っていて、今やまともに言葉がかわされることもない。そんな二人が、いつものように、冷ややかな夕食を終えた直後に、階上で銃声が鳴り響く。行ってみると、屋根裏部屋のベッドに見知らぬ男が死体となって横たわっていた。警察の捜査が進むに連れ、事件の背景には、無為をもてあましてゲーム感覚で盗みを始め、やがてそれをエスカレートさせていくブルジョア家庭の子供達の存在があったことがわかってくる。そのなかでやがて有力な容疑者として浮かび上がったのは、ルールサ氏の娘ニコルの恋人マニュだった。ルールサ氏は容疑者の青年の弁護を引き受けるのだが、裁判のあいだじゅう彼は、ほとんど沈黙したままで、まるで弁護をする様子がない。彼は本当に青年を救おうとしているのだろうか……。

原作を脚色したクルーゾーは、主人公の孤独に焦点を合わせていた小説から、ブルジョア社会によって生み出される犯罪という社会問題へと焦点をずらしている。小説のタイトルである「家の中の見知らぬものたち」のなかには、おそらく主人公のルールサ氏自身も含まれていたはずだ。長いあいだ無為と孤独のなかで自分を見失っていた彼は、不意に自分を「家の中の見知らぬもの」として見出す。このタイトルにはおそらくそんな意味も込められていたのだろうが、ドコワン=クルーゾーはそこにはあまり深入りしていない。レイミュが見事にシニカルに演じるルールサ氏は、どちらかと言うとコミカルなトーンを与えられている。だからこそ、裁判の終盤での彼の有名な口頭弁論は、その激しさによって心を打つ。


よくできたミステリー映画である。しかし同時に、どこといって際立ったところがない映画でもある。そんなこの作品を極めて興味深いものにしているのは、やはりなんといっても、この映画がドイツ占領下のフランスで作られた事実にあるといっていい。

『家の中の見知らぬもの』を製作したコンティナンタル・フィルム(英語読みするとコンティネンタル・フィルム)は、ゲッベルスの指揮のもと、ドイツ占領下のフランスで設立されたドイツ資本による映画製作会社で、1941年から1944年の間に、30本近い映画がここで作られた。クルーゾーの『密告』は、その中で最も有名な作品である。(コンティナンタルについては、いずれ近いうちにもっと詳しく書くつもりだ。)

戦後になって、フランスが占領下から開放されたとき、『密告』は内容が対独協力的だとのそしりを受け、フランス映画史上最も激しい論争の渦に巻き込まれてゆくことになる。結果、クルーゾーは長年フランスで映画が撮れなくなり、『密告』は47年になるまで上映禁止になる。

一方、『家の中の見知らぬもの』も、『密告』ほどの物議をかもしはしなかったものの、一部のものたちから反ユダヤ主義を指摘され、戦後しばらくのあいだやはり上映禁止になる。しかし、『家の中の見知らぬもの』が反ユダヤ的だというのは、少し的はずれだったように思える。シムノンの原作自体には、おそらく反ユダヤ主義を指摘されても仕方がない部分があったのかもしれない(事実かどうかは不明だが、シムノンは、戦後になって、第二次大戦中にドイツと通じていたとの告発を受け、フランスから逃げるようにして米国に渡ることになる)。しかしクルーゾーとドコワンは、少なくとも、原作のなかの反ユダヤ的な偏向と受け取られかねない部分を強調するようなことはしていないし、むしろその痕跡を薄めようとしていたように思える。

この映画が反ユダヤ主義的であるとの指摘は、実は、映画に出て来るある名前をめぐってなされることになるのだが(ミステリーの核心に関わる部分なので、あえて曖昧に書いている)、戦後、その名前は、新たに吹き替えられて、別の名前に変えられることになる。ただ、主役のレイミュがその前に亡くなってしまったので、彼のセリフの中だけはその名前がそのまま残されることになってしまった。


単なるミステリー映画として以上に、消すことができなかった声というかたちで、ナチ占領下の記憶が刻みつけられている映画として、『家の中の見知らぬもの』は実に興味深い作品である。