明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

アルトゥール・ロビソン『戦く影』――影と鏡の戯れ


アルトゥール・ロビソン『戦く影』(Schatten - Eine nächtliche Halluzination, 23) ★★★


「『今宵かぎりは』のダニエル・シュミットがこの映画のリメイクを撮ってくれないものかと思う。シュミットなら必ずやこの作品をより豊かなものにし、再発見させてくれるだろう。それは、ヘルツォークが『ノスフェラトゥ』のリメイクで失敗した試みでもある」(フレディ・ビュアシュ)




アルトゥール・ロビソン『戦く影』は、ドイツ表現主義映画の傑作の一本とされる映画でありながら、日本のみならず、海外でも言及されることが比較的少なく、なかば忘れ去られていると言ってもいい。むろん、当然知っているという映画研究者はたくさんいるだろう。しかし一般の映画ファンのほとんどはアカデミックな映画研究など無縁の世界で生きている。だから、身近で上映される機会もなく、手頃なメディアで取り上げることもなければ、こうした重要な作品であってもすぐに忘れ去られていってしまう。

実を言うと、わたしもつい最近になってこの映画を初めて知ったと言ってもいいくらいなのである。『戦く影』はロッテ・アイスナーの『悪魔のスクリーン』でも大きく取り上げられており、その存在はぼんやりと認識してはいたのだが、やはり見ていない作品はつい頭の片隅に押しやられてしまうものらしい。そんなわけで、以前少しふれた岡田温司『映画は絵画のように』のなかで使われているスチル写真を見てようやくこの映画に興味を持ったという次第である(映画の写真というのは、映画と出会う上でとても重要だ。写真の選択一つで、その映画と一生出会いそこねることだってあるのである)。


ドイツ表現主義映画において、強烈なコントラストを与えられたスクリーン上の光と影の戯れが、単なるホラーめいた効果以上の形而上学的な意味をときとして与えられてきたことはよく知られている。スクリーン上をうごめく影は、人間のうちにひそむ不安であり恐怖であり悪であった。そして、そのような重々しい意味をもたされた影をいかに巧みに演出して見せるかに、表現主義映画作家たちの手腕が試されていたと言ってもいいだろう。

「影」という意味の原題を持つこの映画は、そんな表現主義的な〈影〉のテーマを、最大限にまで突き詰めた究極の影映画である。監督のアルトゥール・ロビソンは、アメリカ生まれのドイツ系ユダヤ人で、ドイツに育ち、ドイツで映画監督になった。『プラーグの大学生』(これも分身をめぐる作品)のリメイクなど数本の映画を監督しているが、一般にはこの『戦く影』一本だけが彼の撮った重要な作品だとされている。


この映画には中間字幕は一切使われていない。冒頭、登場人物とそれを演じる役者の名前を示す字幕が現れる以外は、この映画にはセリフも説明も一切出てこないのである*1(もっとも、この映画に登場する人物たちにはいずれも名前はなく、「伯爵」「妻」「若者」といった普通名詞がただ付されているに過ぎない)。物語そのものは単純であるとはいえ、現実離れした奇想天外な話を、ロビソンは、入念に練られた演出と俳優の演技をとおして、映像だけで巧みに語ってゆく。それは、こんな物語だ。


嫉妬深い伯爵とその妻の住む館に、ある夜、4人の招待客がやってくる。4人は、伯爵がそばにいるにもかかわらず、伯爵夫人への欲望を隠そうともしない。夫人は夫人で、招待客との駆け引きを大いに楽しんでいるらしい。夫人は4人の招待客のなかでもとりわけ色男の若者に惹かれているようで、二人のあいだには今にも一線を越えそうな空気が漂っている。伯爵はそういったことにすべて気づいていて、嫉妬で気が狂わんばかりの状態だ。そんなとき、予期せぬ訪問客が現れる。彼は影絵を使って芝居を見せる影絵使いであり、伯爵は、気まぐれなのか何かの意図があってか、この影絵使いを招き入れる。館の中で何がおきているのかを一目で見て取った影絵使いは、用意していた出し物に代えて、別の影絵を伯爵夫妻と4人の招待客に見せはじめる。それは彼ら自身が主人公である影絵芝居であり、その影絵芝居の中では、これから彼らがたどるべき恐るべき運命が物語られているのだった……。


通りから見上げる階上の窓のカーテンに映る伯爵と夫人の影から始まった映画は、影のテーマを次々と変奏させてゆく。影はまず、「語る」と同時に「騙る」ものとして現れる。ガラスのドアのカーテン越しに、招待客の一人が妻の体をまさぐっているのを見た伯爵は嫉妬に身もだえするのだが、室内に切り替わったカメラは、それが実は、ドアのカーテンに写った夫人の影を、招待客がたわむれに手でなぞっていただけに過ぎないことを示す。やがて登場する影絵使いは、ろうそくの灯りを使って影を巧みに操り、意図的に、伯爵に影を現実と信じ込ませようとさえするだろう(実際には影が重なって見えただけなのに、伯爵は、妻と色男の若者がテーブルの下で手をつないでいるのだと思い込む)。影は見せかけであると同時に、彼らの隠された欲望を示してもいるというわけだ。


映画が面白くなるのはここからだ、『最後の晩餐』のごとくテーブルに一列に並んで座った伯爵夫妻と4人の招待客に、影絵使いは、最初、中国の伝承を扱ったらしい影絵を見せていたのだが、彼はその出し物を不意に中断し、テーブルに近づいてゆくと、催眠状態にかかったようになっている客たちの足元に伸びていた長い影を、光を使って巧みに操り始める。影はどんどん短くなってゆき、ついには消えてしまう。それと同時に、客たちの反対側に、かれらとそっくりの分身が登場し、元の体のほうは突如消滅してしまう。それは、まるで影たちが本体から抜け出て独自に生きはじめたかのようである。しかし自分たちが影だとも知らない彼らは、危険な恋の駆け引きのゲームを続けてゆく。

影たちにも影はある。本人が現れるよりも先に現れ、実物以上に巨大な姿になって壁に映し出される影が不安を掻き立て、悲劇的な結末を予感させる。夫人は色男の若者とついに一線を越えてしまい、伯爵は二人が愛撫しあう部屋の前で、嫉妬にもだえる。ここからの展開はいささか現実離れしているのだが(というか、これは現実ではないのだが)とうとう我慢の限界を超えた伯爵は、あろうことか夫人をロープで縛り上げてテーブルに寝かせると、4人の招待客に剣を持たせ、彼らに無理やり夫人を殺させる。すると今度は伯爵のほうが、激怒した招待客らによって、窓から外の通りに突き落とされてしまうのだ。

しかし彼らは影に過ぎず、すべては影絵使いが見せる夢に過ぎない。彼らはいわば登場人物たちの潜在意識が実体化したものなのだ。悪夢のような影芝居が終わると、彼らは元の体へと戻って目覚める。部屋にはいつの間にか朝日がさしている。自分の欲望に従ってあのまま突き進んでいたらどんな恐ろしい事態になっていたかを悟った招待客たちは館を去ってゆく。そして残された伯爵と夫人が、憑き物が落ちたように穏やかな表情になって愛を語らうという嘘のようなシーンで映画は終わっている。

この映画全体を、影絵芝居による一種の心理セラピーを描いたものとみなすこともできるだろう。潜在意識をあからさまに見せつけられることで、彼らは自分たちのどうしようもない妄念から解放されるのである。

フリッツ・ラプスがいつもながらの強烈な存在感で召使の一人を演じている。もしもシュミットがこの映画をリメイクしていたならば、この人物がシュミット作品らしい〈傍観者〉の役割を演じることになっていたのだろうか。いや、もうひとりの、年がいった方の召使のほうがシュミット的な〈傍観者〉にはふさわしいか。

ところで、映画の最後に、影絵使いは広場にいた豚の背中に乗ってどこへともなく姿を消す。豚は悪魔と関連付けて語られることも多い動物だ(この時そばにいた町人が慌てて胸の前で十字を切る)。そういえば、かれが着ている上着の背中には妙な形に突き出た部分があり、それが悪魔の尻尾に見えなくもない。結果的に、全てを丸く収めて去っていったが、かれが時折浮かべる表情や、振る舞いには、たしかに悪魔的な部分が見え隠れしている。このラストは彼が悪魔であることを示唆しているのだろうか。

影の話ばかりしたが、この映画では鏡を使った巧みな演出も注目される。夫人の寝室(そこで逢引が行われる)へと向かう廊下の曲がり角に大きな鏡が2つあり、夫人の寝室の扉の開閉と、その中で起きていることは、しばしばその鏡に映った影像を通してのみ示されるのだ。その鏡を通して妻の逢引を目撃した伯爵は、鏡に映る自分の姿に耐えられず、鏡を叩き割る。しかしそれはいたずらに鏡像を増幅させるにすぎない。


鏡と影。この2つは言うまでもなく、スクリーンに映し出される映画イメージのメタファーでもある。この映画は、いわば映画を見るという体験自体を描いた映画でもあるという解釈もできる。実際、登場人物たちの影が実体の方に帰ってくる場面で、映画のなかのスクリーンに映し出されていたものは映画だった。


たとえばカール・テオドア・ドライヤーの『吸血鬼』に描かれる、独り歩きしたあとで体に戻ってくる影や、納屋の鋤や鎌などが壁に投げかける不気味な影、あるいは影たちのめくるめく舞踏会などといった、あの驚くべき瞬間の数々に比べるならば、『戦く影』の影のイメージはどれも凡庸なものに思われてきもしよう。それはたしかであるのだが、この映画が映画史上における実にユニークな作品であることに変わりはない。何はともあれ必見の映画である。


*1:無字幕映画というとムルナウの『最後の人』が有名であるが、『戦く影』は、実は、『最後の人』の一年前に撮られている。