ウェズリー・ラッグルス『シマロン』(Cimarron, 31) ★½
1889年のオクラホマの土地獲得競争(オクラホマ・グレート・ラン)から大恐慌の時代に至るまでの40年近い時の流れを年代記的に描いたこのスペクタクル大作を、単純に西部劇に分類していいものかどうかわからないが、少なくとも前半部分には、西部劇的な要素がいろいろと詰まっている(教会のなかでの悪漢との対決や、大通りでのガン・ファイトなど)。
リチャード・ディックス演じるヤンシーは、妻を連れてオクラホマに移住し、新聞社を立ち上げる。西部劇においてジャーナリズムが果たしてきた役割を考えると興味深い展開である。しかしこの映画では、新聞はたんに主人公の職業である以上の役割は果たしていない。
ヤンシー夫婦の旅に勝手に同行する黒人少年の描き方は、黒人のステレオタイプそのもの(キーキー声でしゃべり、知性のかけらも感じられない)。しかし一方で、主人公ヤンシーの考え方や行動が、意外なほどポリティカリー・コレクトなことに驚かされる。彼は、教会にユダヤ人を受け入れ、町の品行方正な人たちから軽蔑されている女(『駅馬車』のダラスや『三悪人』のミリーのような孤児)を裁判で擁護し、息子がインディアンの娘と結婚するのを歓迎する(彼の妻は、最初、それがまったく理解できない)。
すぐに水溜りの出来るでこぼこ道はゆっくりと整備されてゆき、やがて市電が通り、最後には、両側にビルが立ち並んで車がひっきりなしに往来するようになる。同じ位置から撮られた町の風景が40年の時間の流れのなかで変貌してゆく様子には、なにがしかの魅力がないわけではない。
しかし、この長きにわたる時間を描いた年代記映画で、その中心となる人物たちがあまり魅力的でないというのは、ちょっと致命的だ。とりわけ、後半でヤンシーに取って代わって物語の中心となる彼の妻を演じるこの映画のアイリーン・ダンはまったくと言っていいほど魅力を欠いている。
とにもかくにも、サイレントからトーキーへの移行期に最もダメージを受けたジャンルである西部劇が、トーキーにおいても成功作を作ることが出来ることを示したという意味で、無視できない作品ではある。