明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

リトウィク・ガタク『Ajantrik』

リトウィク・ガタク『Ajantrik』(58) ★★★


インドの映画監督リトウィク・ガタク(読み方いろいろ)がデビュー作『Nagarik』に続いて撮った長編劇映画第2作(共同監督作品も数えると違ってくるが)。これまでガタクの映画は6,7本見ているが、出来不出来は別にして、これが一番好きかもしれない。素晴らしい作品だ。

これは一種の恋愛映画ということになるのだろうか。ただし、ここに描かれるのは男女の愛ではなく、一人のタクシー運転手と彼の愛車との愛の関係なのである。

この映画に描かれているのは、作品が撮られたのとほぼ同時代、50年代のインドであると考えていいだろう。主人公のタクシー運転手は、20年型のオンボロなシボレーをいまだに使って営業を続けていて、金ピカの新車を使っている同業者や、町の人達からいつもからかわれている。しかし、彼の車はどんなにポンコツであっても壊れたことはなく、今までちゃんと走り続けてきた。それが彼の誇りだった。しかし、その車にもとうとう寿命が近づいてくる……。

まず注目すべきは、主人公が自分の車に対してみせる愛、というか執着の凄まじさだ。車を "Jaggadal" という愛称で呼び、客が車のことを馬鹿にすると怒り狂う。それだけならば、車好きが少し行き過ぎただけということになるのだろうが、かれが車に対して抱いている感情は、そんな普通の車愛好者と愛車との関係を遥かに超えるものだ。車に対してまるで人間相手のように呼びかけ、ラジエーターの水が不足すると、近くの川で汲んできた水を、「のどが渇いたかい?」と言いながら車に飲ませてやる。すると車は、ごくごくと音を立てながらその水を文字通り美味しそうに飲むのだ。

このように、主人公のいささか常軌を逸した愛情に応えるかのように、車もときとして生き物のように振る舞う。それどころか、だれもふれていないはずの車のヘッドライトが点滅することさえあり、この車には自立した意識さえあるのではないかと思わせる瞬間まである。この映画に描かれる人間と車との異様な関係を見ていると、どうしてもジョン・カーペンターの『クリスティーン』を思い出してしまう。ジャンルもスタイルも何もかも異なる作品だが、車に対する異常な執着という一点でこの2作は共通している。ただ、『クリスティーン』に出てくる車はタイトルからもわかるように女性だったのだが、『Ajantrik』の車の性別はなんなのだろうか。ベンガル語は全くわからないのだが、英語字幕を見ると、車は "he" という男性代名詞で呼ばれている。どうやらこの車は男性であるようだ。となると、この映画に描かれる主人公と車との関係はどのように理解すればいいのだろうか(同性愛?)。かれがこの車を初めて買ったのが、母親の死の直後だったというのもポイントになるところかもしれない。いずれにせよ、主人公がタクシーの乗客の女に恋をして、それまで大事に扱ってきた車に無理をさせ、彼女が乗った列車を追いかけさせたことがきっかけで、車が壊れ、ついには廃車=死を迎えることになるというのは、とても意味深である。


ガタクは、車がまるで生き物であるかのように見せるために、ヘッドライトの動きや、とりわけ様々なサウンド効果を巧みに使っている。その斬新かつユーモラスなサウンドの使い方は、たしかにジョナサン・ローゼンバウムの言うとおり、ジャック・タチ作品のそれを思わせもする。なかでも、ラストのところで、なんとか車を甦らせようとする主人公の努力にも関わらず再起不能となってしまった車がとうとうスクラップ業者によってくず鉄として運び出されてゆく場面の哀切極まるサウンドは筆舌に尽くしがたい。ガタクの映画をあまり音を意識してみたことはなかったが、この映画を見ると、その側面から彼の作品をまた見直したくなってきた。


なにかファンタジー映画のような印象を与えてしまったかもしれないが、ぜんぜん違う。下手をすると現実離れしたファンタジーになりそうな主題を、ガタクはあくまでリアルに描き出してゆく。デビュー当時から晩年まで、フィクションと並行してドキュメンタリー映画を作り続けてきた監督らしい鋭い眼差しが、この映画にも随所に感じられる。そこがまた素晴らしい。

インドのドキュメントという観点から興味深いのは、主人公が旅の途中で何度か遭遇する、大きな旗を振りかざしながら踊り歩く謎の集団だ。かれらはインドの原住民部族の一つであるオレオン族であり、その姿がこのように映画に記録されているのは、少なくとも当時としては非常に珍しかったのではないかと思われる。ガタクはオレオン族について書いたエッセイを残してもいるし、彼らを主題にしたドキュメンタリーを撮ろうともしていたらしい。しかし、この映画は結局撮られることはなかった。


この時代、タクシー運転手を描いたインド映画がもう一本存在する。巨匠サタジット・レイが62年に撮った『Abhijaan』である。レイがガタクの作品からいかなる影響を受けたかは定かではない。レイの映画に描かれる不機嫌なタクシー運転手も、30年型クライスラーに並々ならぬ執着を見せ、その点では共通する部分もある。しかし両作品のテーマはやはり全く異なる。『Abhijaan』では、タクシー運転手の困難な人生を通じてインドの社会的現実を描くことにこそ監督の狙いがあるといっていい。たぶんだが、スコセッシの『タクシー・ドライバー』はこの『Abhijaan』から少なからぬ影響を受けている。