神戸映画資料館の連続講座「ジャン・ルノワール『素晴らしき放浪者』編」があと一ヶ月もないところまで近づいてきたので、しばらくはフランス映画の話題が増えると思う。
ジュリアン・デュヴィヴィエ『モンパルナスの夜』(La tête d'un homme, 32) ★★½
ジョルジュ・シムノンの小説を初めて映画化したジャン・ルノワールの『十字路の夜』の直後に作られた、シムノン小説の最初期の映画化作品の一つ。
原題は直訳すると「男の首」くらいの意味になるのだが、たぶん恋愛ものと錯覚させようと狙ったのであろう邦題は、この原題が持つ不気味なニュアンスを台無しにしてしまっている。
金のかかる恋人に手を焼いていた男が居酒屋で冗談でこういう。「だれでもいい、だれか叔母を始末してくれたら10万フランあげてもいい。そしたらおれに遺産が入ってくるんだ」。するとその直後に正体不明の何者かが彼にメモを手渡す。そこにはこう書かれていた。「取引は成立した」
男は悩んだ末に、指定された場所に金を持ってゆく。すると本当に、彼の叔母は何者かによって殺害されてしまうのだ。むろん男はその時間に完璧なアリバイを用意していた。犯人はすぐに捕まるのだが、彼は真犯人によってまんまとはめられた単なるスケープゴートに過ぎなかった……。
『見知らぬ乗客』をちょっと思い出させる映画の出だしからしてなかなかスリリングだ。追い詰められていけば行くほど不気味に落ち着き払ってゆく真犯人の、絶望的であると同時に、達観したような顔、仕草、セリフが強烈な印象を残す。そのため、メグレ警視ものの一つであるのにもかかわらず、この映画のメグレはほとんど存在感を発揮していない。
ミステリー映画なので、内容についてはあまり多くは語らないことにするが、今で言うところサイコ・サスペンスの先駆けと言ってもいい作品であり、現在でも十分に鑑賞に耐える。というか、単純に、とても面白い。
刑事による聞き込みの場面で、手前の刑事はそのままに、相手だけがスクリープロセス画面で次々と変わっていくところなど、当時としては洒落た演出だったのだろうが、今見ると古めかしく、やっぱりデュヴィヴィエはセンスがないなぁと思ってしまうところも多いが、ルノワールの『牝犬』『ボヴァリー夫人』と同じくビアンクール撮影所のマルセル・クルムが音響を担当しているので、サウンド面では数々の実験を試みていて実に興味深い。
警察署内部を捉えた場面での、各自が一斉に関係のない話をしている声をざわめきのように聞かせるところや、オフ・サウンドの多用、あるいはメグレが車のタイヤのパンクを装って容疑者をわざと逃がす場面におけるイメージと音とのズレなど、見るべきところ(というか、聴くべきところ)はいろいろある。しかし、同時代のルノワールが同時録音に徹底してこだわっていたのに比べると、デュヴィヴィエにはこの点においてもやはりルノワールが持っていた現代性に欠けていると言っていい。ルノワール作品のオフ・サウンドは、カメラがパンすればそこに音源となるものが確実に存在していることを確信させる厚みと存在感を持っているのだが、このデュヴィヴィエ作品のオフ・サウンドにはそれがまったくない。
同時代のフレエル*1と並ぶ女歌手ダミアの歌も実に効果的に使われている。映画が始まると同時にクレジット画面(タイトルを連想させる不気味なギロチンのイメージ!)をバックにすでに彼女の歌は聞こえている。その後も、彼女の声は、あくまでも画面オフから、だが真犯人の部屋の隣の部屋から聞こえてくるリアルな歌として、作中で大きな存在感を放つ。真犯人はその見えない歌声の主を、かれが性的に執着する女(そのために彼は犯行を犯すのだ)と、想像のなかで重ね合わせるのである。こうした歌の使い方も、『牝犬』の殺人をストリート・ミュージシャンの歌に接続する場面や、あるいは『獣人』の殺人場面での同じような歌の使い方など、ルノワール作品における歌の使い方と比較することが可能だろう。