明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。










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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ジョン・フォードの2本の警察映画ーー『赤毛布恋の渦巻き』『ジョン・フォード/ギデオン』

ジョン・フォード赤毛布恋の渦巻き』(Riley the Cop, 1928)


フォードはトーキー映画を初めて撮ったあともサイレント映画を何本か作り続けた。これは現存するフォード最後のサイレント映画である(このあとに撮られたフォードのサイレント映画は失われてしまったはずで)。

邦題の意味は見当もつかない。二人の女優のどちらかが赤毛で有名だったのか(だとしても、モノクロ映画だからあまり意味がないのだが)。


「すぐれた警官であるかどうかは、かれが逮捕しなかった人間の数でわかる」という格言(?)で映画は始まる。

今まで一度として人を逮捕したことがないベテラン警官ライリーがこの映画のとりあえずの主人公である。そのはずなのだが、IMDb のストーリー要約を見ると、まるで彼が脇役であるかのように物語がまとめられてあって、本当に同じ映画のことを語っているのかと一瞬疑ってしまう。IMDb のストーリー要約ではこういうことはよくあるのだが、フォード映画の場合これは不思議ではないという気もする。最初にストーリーがあって、それにそってシーンが作り上げられてゆくというよりは、それぞれ独立したシーンが並べられたあとにストーリーが出来上がってゆくという印象を、フォードの映画を見ていると受けるのだ。プロデューサーから撮影スケジュールが遅れていると言われたフォードが、脚本から1シーン分をまるまる破り捨て、これでいいだろと言ったという逸話は有名だが、この逸話はフォードの映画の本質を言い当てているようにも思う。フリッツ・ラングが同じようなことをするところなど想像もつかない。


ライリー警官は、子供の頃から見守ってきた地元の青年と娘がもうすぐ結婚すると知って喜ぶ。だが娘は、青年との結婚を快く思っていない叔母に連れられてベルリンに旅行に行ってしまう。青年はなけなしの金をはたいて彼女の後を追うのだが、なぜか彼には勤め先の金を盗んで逃げた逃亡犯という汚名が着せられる。ライリーは彼を追ってベルリンに向かう。ところが、向こうに着くと、彼は青年のことなどなかば放ったらかしにして、ドイツ娘と楽しくやり始める。果たして彼は青年を逮捕して、警官人生で初めての手柄を立てることができるのか……。

後半ドイツが舞台となる部分は、フォードがドイツのウーファ撮影所のムルナウに会いに行った話を思い出させる。物語の舞台はドイツからさらにパリへと移るのだが、パリのナイトクラブのシーンには、ルビッチの『陽気な巴里っ子』の影響が色濃い。

ライリー役のJ・ファレル・マクドナルドのコミカルな演技は、後年のウィル・ロジャースなどに通じるものがあり、彼とその同僚のドイツ系警官とのライヴァル関係は、ジョン・ウェインとヴィクター・マクラグレン、あるいはジェームズ・キャグニーとダン・デイリーといった、フォード映画が数々描くことになるライヴァル関係を予感させるものである。ライリーは最後にドイツ娘と結ばれ、青年と娘のカップルとダブルで結婚式を行うことになるのだが、そのドイツ娘が実は彼のライヴァルであるドイツ系警官の妹だったと最後にわかるというオチ。

ジョン・フォード/ギデオン』(Gideon's Day, 1958)

"Gideon of Scotlandyard" というタイトルでも知られる。このタイトルからもわかるように、イギリス、スコットランドヤードを舞台にした作品で、ワイラーの『探偵物語』(51) やフライシャーの『センチュリアン』(72) などの系譜にも連なる警察ものである。フォードが警察官を主人公にした映画を撮ったのは、たぶん『赤毛布恋の渦巻き』以来であり、これ以後もなかったはず。その意味で、これはフォードのフィルモグラフィーのなかでかなり異質な一本であると言っていい。

ギデオンの〈平凡な〉一日を描くこの映画は、ギデオンが最も信頼している同僚刑事の汚職疑惑、そして彼の交通事故死という重々しいエピソードでいきなり始まる。この同僚刑事を轢き殺した男は、彼の愛人の夫である画家であり、この夫婦はひそかに給金強盗に加担していた。その一方で、精神病院から脱走して少女を殺害した狂人がいまだ捕まらずに、街をうろつきまわっている。次から次へと起きる事件にギデオンは休む暇もなく、最後は、有閑階級のドラ息子たちによる銀行強盗を解決して、ようやく我が家に帰り着くのだが、ホッとしたのもつかの間、事件を知らせる電話が鳴り響き、彼は再びスコットランドヤードに連れ戻されるのだった。


フォードらしからぬダークな内容だが、コミカルな要素は随所に散りばめられている。『赤毛布恋の渦巻き』がコメディ調のスケッチに近いものであったとするなら、こちらは非常にシリアスであると同時に、コミカルでもある、悲喜劇とでもいうべき濃い内容の映画になっている。いや、むしろ、平凡な日常のなかのヒロイズムとでもいうべきものを描いているというべきか。実際、フォードは映画のなかで描かれる犯罪そのものにはほとんど興味を持っていないように思える。

人や車の行き交うロンドンの通りを捉えた映像をバックにクレジットが流れ、それが終わると、スコットランドヤードのオフィスのデスクに座る主人公ギデオン警部のショットがつづくのだが、カラー映画にもかかわらず、その顔はほとんど判別がつかないほど深い影に覆われている。まるでフィルム・ノワールのような暗い画面だ。グレッグ・トーランドが撮影を担当した『果てなき船路』などで頂点に達するキアロスクーロの画面は、カラー映画になってからフォードの映画から徐々に消えてゆくのだが、この映画を見ると、フォード作品におけるドイツ表現主義の影響の名残とでもいうべきものは、作品が扱う主題次第によっていつでも前面に現れれてくる状態にあったといえる。

ギデオンを演じるジャック・ホーキンスの、すぐにカッとなり、身振りや言葉でその怒りを表しながら、その感情をぐっと抑えつける演技は、フォード映画に出ているときのジョン・ウェインのそれを容易に思い出させる。

ライリー警官は独身だったが、最後に結婚する。一方、ギデオンには最初から妻も娘もいる。考えてみれば、フォードは、主人公が結婚して妻も子供もいて、家に帰ると愛する家族が待っているという映画を、意外なくらい撮っていないのではないだろうか。ひょっとすると、これはそういう意味でも例外的なフォード映画の一本になるのかもしれない。登場する度に彼を苛立たせる子供のような顔をした新米警官と、自分の娘がいつの間にかいい関係になっていることをギデオンが最後に知るというラストは、『赤毛布恋の渦巻き』のオチを少し思い出させる。二人を玄関で見送ったあとで、「警官とだけは結婚しちゃダメよ」と、本気とも思えない顔で娘に忠告する母親。その母親の言葉を聞いているのかいないのか、「うん」と生返事する娘の視線は、その新米刑事を追いかけている。


この映画は米英合作ということになるのだろうか。ともあれ、最初に公開されたのはイギリスでだったようだ。アメリカでは、この映画はモノクロ映画として公開されたらしい。嘘のような話だが、映画の世界ではこんなことはごくごく普通に起きるのである。『モナリザ』が白黒に塗りつぶされたら大事件になるが、映画の世界では、カラー映画がモノクロにされてしまっても、だれも騒ぎはしないのだ。