ハンス・シュタインホフ『ヒトラー青年』(Hitlerjunge Quex, 1933) ★★★
ヘルベルト・ノルクスという名前を聞いてすぐに誰だか分かる人は、ドイツ史の専門家でもない限りそう多くはないだろう。1932年1月24日、ベルリンで、いわゆるヒトラーユーゲント(ナチス党内の青少年組織)の一員だった若干15歳の少年が、ナチ党のポスターを張っていた際に共産主義者に刺殺されるという事件が起きる。その少年のこそがヘルベルト・ノルクスである。当時、ヒトラーユーゲントを指導していたバルドゥール・フォン・シーラッハと、ナチの宣伝相ゲッベルスは、すぐさまこの少年を英雄に祭り上げ、彼の死をナチのプロパガンダに利用した。事件の二日後には、ゲッベルスは、自ら創刊したナチスの機関紙「アングリフ」に、この殉教した少年に捧げる一文を掲載しているのだが、この文章がなかなか恐ろしい。ゲッベルスは、刺された上に頭を踏みつけられて殺された少年の、虚空を見つめるうつろな眼差しから語り起こし、その壮絶な死に様をほとんどサディスティックに描写してゆく。すると突然、「やつらが僕を殺した」と、死んだ少年が独白を始めるのである。少年は、自らが惨殺される瞬間を生々しく描写してゆくのだが、怖いのはその最後の部分だ。自分の死の瞬間を一通り語り終わると、少年は(というか、ゲッベルスは)次のよう言葉を結ぶのだ。
「これはドイツで起きた。西欧文明の一員であると主張しているこの国で。しかもそれは、まだ子供である僕が、祖国のために尽くそうとしたというただそれだけの理由からだった……。僕こそはドイツだ」
ゲッベルスは、この少年を殉教者に仕立て上げ、英雄として永遠化することで、彼の中にナチス・ドイツの未来を永劫化してみせたのである。
この年、ノルクス少年をモデルにして書かれた小説、『Hitlerjunge Quex』が発行された。そしてナチスがついに権力を掌握する翌年の33年にはもう、この本はウーファ製作、ハンス・シュタインホフ監督で映画化されている。タイトルは原作と同じ「Hitlerjunge Quex」(「ヒトラー・ユーゲント Quex」)だった。日本では「ヒトラー青年」(あるいは「ヒトラー青年クヴェックス」)のタイトルで知られている。
第一次大戦の敗戦による法外な賠償金や、それに続く大恐慌によって貧困に喘いでいたドイツがこの映画の舞台だ。貧しさから盗みをはたらいた男を捕まえた店主に、野次馬たちが「悪いのは、働いても、働いても暮らしが楽にならないこの世の中だ」と囃し立て、やがて暴動が起きて警察が出動するにまでに至るところから映画は始まる。群衆を扇動していたのは一人の共産主義者であったことがあとになってわかる。この共産主義者は、最初こそ、このように一見民衆の側に立って活動するものとして登場するが、やがて次第に、目的のためには手段を選ばない悪意に満ちた卑劣な人間としてその本性を顕にしてゆき、結果的に主人公の少年をしに至らせることになるだろう。
このナチス初期のプロパガンダ映画においては、ユダヤ人の存在はほとんど問題とされていない。多くの作品を見たわけではないので断言はできないが、この時代のナチのプロパガンダ映画においては、ユダヤ主義が問題とされることはまだあまりなかったと言われる*1。いずれにせよ、この映画でナチス党に対立する存在は、あくまでも共産主義者たちである。
印象的な場面が一つある。冒頭に登場した共産主義者の男は、主人公の少年を共産主義に引っ張り込もうと企んで、彼をコミュニストたちのキャンプに連れてゆく。しかし、少年は、浮かれ騒いで、粗野な冗談を言って彼をからかうコミュニストたちの集団に居心地の悪さを覚え、ひとりでフラフラと林の中を歩きまわり始める。すると突然、眼下に開けた空き地が現れ、そこでナチスの若い党員たちがキャンプをしているのを垣間見る。コミュニストたちと対照的に、規律正しく、健康的なナチの党員たちの姿に少年はたちまち魅了される……。
少年は家に帰り、ナチスの党員たちが歌っていた唄を口ずさんでいるところを父親に見つけられて、激しく殴打される。少年の父親はコミュニストであるが、かれもまた、貧しいなかでなんとかやりくりしている妻に大声でわめき散らして無理やり酒代を出させようとする、アルコール中毒のみすぼらしい人間として描かれている。
一方で、この映画に描かれるナチの党員たちは、祖国ドイツのために真摯に努めるものたちであり、ドイツではなく他国(〈インターナショナル〉)ばかりを見ているコミュニストたちと絶えず対比される(「イギリスのビールとドイツのビールがあったならどちらを飲む?」)。そして、この映画の中では、ことを成就するために暴力を使うのはいつも共産主義者たちであり、その暴力の犠牲となるのはナチの党員たちのほうなのである。
こうやって書くと、とてもわかりやすい陳腐なプロパガンダ映画のように思えるかもしれないが、作品を見た印象はぜんぜん違う。決して押し付けがましい映画ではなく、むしろ、プロパガンダ映画であることを時々忘れてしまうほど、ときに繊細に見事に作り上げられている映画である。
たしかに、共産主義者たちを貶めることによってナチスを高揚するという姿勢においてこの映画はまぎれもなくプロパガンダ映画であると言ってよい(もっとも、それは、『戦艦ポチョムキン』がプロパガンダ映画であるのと同じ意味でしかない。実際、この映画はエイゼンシュテインのこの作品に対抗する形で、それを参考にしつつ作られたと言われる)。しかし一方で、この映画には何とも言えない曖昧さが最後までつきまとう。作者たちの意図がナチスの高揚であったにしても、観客は、この映画にはそれとは別の意味があるのではないかというモヤモヤとした気持ちを拭い去れない。この映画はナチスドイツのために犠牲となった少年を通じてナチを高揚した作品などではなく、コミュニズムがなんたるかもファシズムがなんたるかもわかっていない愚かな少年が、歴史に翻弄されて無意味に死んでく姿を描いた映画ではないのか? その時この映画は、例えば『ドイツ零年』のような作品に近づくと言っていいだろう。
この映画はナチスによって強力に推薦され、学校の子供たちが課外授業で映画館に観に行ったりもして、千から2千人の観客を動員したと言われる。
この悪名高い映画がドイツ国内外に与えた影響は決して少なくない。様々な研究がなされてきているが、とりわけ有名なのは、『精神のエコロジー』で有名なグレゴリー・ベイトソンが、この作品について詳細な分析を加えた一冊であろう。さいわい日本でも、『大衆プロパガンダ映画の誕生――ドイツ映画『ヒトラー青年クヴェックス』の分析――』として翻訳が出ている。実を言うと、この本は数十年前に買って読まずにずっと書棚に眠っていた。今回、この映画を見終わっただいぶあとで、「Hitlerjunge Quex」の邦題が「ヒトラー青年」だということに気づいて初めてこの本のことを思い出した次第である。なので、まだ読んでもいない。
この映画についてはまだまだ書くべきことがたくさんあるが、すでに長くなりすぎた。ベイトソンの本を読んだあとにでもまた詳しく論じたいと思う。