明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


このサイトはPC用に最適化されています。スマホでご覧の場合は、記事の末尾から下にメニューが表示されます。


---
神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

---

評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

猫と映画と寺山修司

今まで作っていなかったのが不思議なくらいだが、新しく「猫」のカテゴリーを設けることにした。いよいよ猫学を極めることを決意したからである。というのは嘘で、長い記事ばかり書いているとあまり更新できないから、ちょっとした小ネタを挟んでゆくことで、更新の間隔をできるだけ開けないようにする、そんな試みの一環としてである。まあ、小ネタなのでそんなに大したことは書いていない。気楽に読んでいただければと思う。


さて、このカテゴリー最初のお題は、「猫と映画と寺山修司」である。

寺山修司の作品にはたびたび猫が登場する。たとえばこんなふうに。

少年時代

長靴をはいた猫と
ぼくとが
はじめて出合ったのは
書物の森のなかだった

長靴をはいた猫は
ぼくに煙草をおしえてくれた
ちょっといじわるで
いいやつだった

長靴をはいた猫と
わかれたのは
木の葉散る
秋という名のカフェ

その日
ぼくは
はじめて恋を知った

人生のはじまる前と
人生のはじまったあと
そのあいだのドアを
すばやく駆けぬけようとした

ぼくの
長靴をはいた猫は
いまどこにいるか?

名詞

恋という字と
猫という字を
入れ替えてみよう

「あの月夜に
 トタン屋根の上の一匹の恋を見かけてから
 ぼくはすっかり
 あなたに猫してしまった」と

それからブランデーをグラスに注いでいると
恋がすぐそばでひげをうごかしている

猫の辞典

猫…ヒゲのある女の子
猫…闇夜の宝石詐欺師
猫…謎解きしない名探偵
猫…この世で一ばん小さな月を二つ持っている
猫…青ひげ公の八人目の妻
猫…財産のない快楽主義者
猫…毛深い怠け娼婦
猫…このスパイはよく舐める


以上はすべて、『寺山修司少女詩集』に収録されている。

寺山修司少女詩集 (角川文庫)

寺山修司少女詩集 (角川文庫)



『猫の航海日誌』にも、「猫の辞典」によく似た定義の羅列が出てくる。

猫…多毛症の冥想家
猫…食えざる食肉類
猫…灰に棲む老嬢
猫…殺人事件の脇役
猫…財産のない快楽主義者
猫…唯一の政治的家畜
猫…長靴をはなかいときは子供の敵
猫…真夜中のヴァイオリン弾き
猫…舌の色事師

猫の航海日誌 (1977年)

猫の航海日誌 (1977年)



これらの猫の定義は、寺山の映画作品『トマトケチャップ皇帝』のなかでも形を変えて繰り返されることになるだろう。「トマトケチャップ帝国」(?)のなかでは、たとえば、長靴をはかない猫はすべて銃殺刑に処すべきという布告がなされていた。「唯一の政治的家畜」という言葉も、この映画のなかでほとんどそのまま使われていたはずである。しかし、「政治的家畜」とは一体どういう意味なのだろうか。

ところで、寺山修司の映画監督デビュー作は、公式的には62年の『檻囚』ということになっているが、それよりも前に撮られた8ミリ映画『猫学 Catlogy』が、彼の幻の処女作であることは、寺山修司のファンなら誰でも知っているはずである(「猫学 Catlogy」というタイトルは、おそらくチャーリー・パーカーの「鳥類学 ornithology」にヒントを得たものであろう)。芳村真理の飼猫がビルの屋上から無残に地面に投げ落とされる様がこのフィルムには収められていた、とまことしやかに語られているが、この作品を実際に見たものは松田政男などわずか数名に限られているし、むろんわたしも見たことはなく、理由は定かでないが、寺山自身がこの作品を廃棄(?)してしまった今となっては、その真偽を確かめるすべもない。ところで寺山は、この幻の処女作にふれて、「アウシュビッツ強制収容所」に言及しているのだが、彼はこの映画で猫の虐殺をアウシュビッツにおける虐殺と重ね合わせようとしていたのだろうか。それはあまりにも稚拙であるし、そのために猫を殺したのだとしたら、それは猫好きとしては絶対に許すことのできない行いであったというしかない。寺山修司は本当に猫が好きだったのだろうか。

それはともかく、「政治的家畜」という言葉の意味を解く鍵はこの幻の作品の中にあるのかもしれない。ところで、クリス・マルケルが60-70年代の政治的騒乱を左翼的な立場から描いたドキュメンタリー映画『空気の底は赤い』(英語タイトルは "A Grin Without A Cat")には、「猫は政治とは無縁の動物である」という言葉が出てくる。わたしにはこの言葉のほうがむしろしっくり来る。猫は政治とは無縁の動物である。「ナチスの犬」はいても、「ナチスの猫」は存在しない。

(『猫学 Catlogy』の詳細については、例えば、『寺山修司 迷宮の世界』(洋泉社MOOK)を参照。)

寺山修司の迷宮世界 (洋泉社MOOK)

寺山修司の迷宮世界 (洋泉社MOOK)