明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


このサイトはPC用に最適化されています。スマホでご覧の場合は、記事の末尾から下にメニューが表示されます。


---
神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

---

評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

イングマール・ベルイマン『愛のさすらい』

イングマール・ベルイマン『愛のさすらい』(The Touch, 1971) ★★

アントニオーニに寄せたような邦題よりも原題の「ザ・タッチ」 のほうが馴染みがある。一度も見る機会がなく長らく気になっていたベルイマン作品のひとつ。『狼の時刻』や『恥』のように今まで抱いてきたベルイマンのイメージを改めさせてくれるような作品をちょっと期待していたのだが、そういう意味ではいささかがっかりする内容だった。ただ、その一方で、「神の不在」を問う深刻な(あるいは深刻ぶった)いつものベルイマンの世界とも、この映画は異なっている。人妻の不倫を描いたメロドラマ的、というかソープオペラ的な凡庸な物語を、一見なんの工夫もなく提示して見せているだけのように思えるこの映画には、死神や魔術師はもちろん登場しない。ベルイマンの作品としては例外的といっていいほど日常の世界を描いた作品だと言える。

『愛のさすらい』がそれまでのベルイマン作品とは一味変わっているのには、この映画がアメリカの ABCピクチャーズによって製作されたことが少なからず関わっているにちがいない。なにせ ABCプロダクションはこの年にペキンパーの『わらの犬』を製作したりしている会社であり、この映画の主演はあの『M★A★S★H』(69) のエリオット・グールドなのだから、いつものベルイマンとは雰囲気の違うものとなっても不思議はないだろう(もっとも、最初はグールドではなく、ダスティン・ホフマンで話が進んでいたとも聞く。ダスティン・ホフマン主演のベルイマン映画! それはどんなものになっていたのだろうか)。

ベルイマンが海外資本で映画を撮るのはこれが初めてであったかどうかは知らないし、プロダクションとの関係がどのようなものだったのかも不明だ。しかし彼がこの状況のなかで新しい映画の形を模索していたのは確かだろう。

共演はいつものマックス・フォン・シドーとビビ・アンデショーン。シドーとアンデショーン夫妻の平凡なブルジョア家庭の調和を、突然現れた考古学者グールドがかき乱すというかたちだ。エリオット・グールドではたして大丈夫だろうかと最初は思ったが、意外にも違和感なくベルイマンの世界に収まっていたのでびっくりした。

確かに、らしくないベルイマン映画ではあるが、繰り返される顔のアップはいつものようにベルイマン的な「顔の映画」を形作っている(とりわけ、朽ちかけた教会の壁の穴から覗き見られる虫に食われたマリア像の顔は、この映画のもっとも印象的な場面であり、この作品における数少ない宗教的象徴性を帯びた場面でもある)。ノラのように潔く家庭を捨てて愛人のもとに走る人妻アンデショーンの迷いのなさとは対照的に、あれこれと思い悩むグルードがときおり見せる破壊的な衝動の背後に、肉親の収容所体験が影を落としていることも興味深い。

『この女たちのすべてを語らないために』(64) 、『沈黙の島』(69) などと同じく、スヴェン・ニクヴィストの撮影によるイーストマン・カラー作品。花々を鮮やかに捉えた撮影は、『この女たち〜』の人工的な色彩とはまったく異なるナチュラルな色彩を見せる。