ハーバード・J・バイバーマン『地の塩』(Salt of the Earth, 1953) ★★
マーク・ロブソン『青春物語』(Peyton Place, 1957) ★½
ジュリアン・デュヴィヴィエ『地の果てを行く』(La bandera, 1935) ★½
マーク・ロブソン『青春物語』は、アメリカではファミリー・メロドラマの名作として非常に有名なのだが、日本ではあまり知られていない。田園の四季を映し出す冒頭のシークエンスを始め、時折挿入される風景ショットにはハッとさせられるし、カラー作品でありながら深い影の落ちる室内撮影の重厚さはどことなくダグラス・サーク作品を思い出させ(ラナ・ターナーが主役のひとりなのでなおさらだ)、この時代のハリウッドの映画はさすがに贅沢だなと思う。しかし、2時間半を超える上映時間の中にこれでもかと言うほど、家族や学校や地域社会の様々な問題を詰め込み、最後は殺人事件まで起きるわりには、ドラマは終始一貫全然盛り上がらない。被告の無実を知る証人が、被告自らによって発言を禁じられ、被告が次第に追い詰められていく最後の裁判シーンなどは、ジョン・フォードの『プリースト判事』の最後の裁判部分と似たような話を扱っているのだが、同じ題材を扱いながらどうしてこうも盛り上がり方に差があるのだろうか。
デュヴィヴィエの『地の果てをゆく』は、今でも日本のオールドファンには人気があり、フランス本国でも評価が高い。冒頭の、リアルでありながらどこか歪んだパリのセットを俯瞰カメラがなめるように撮ってゆくショットには、この時代のフランス映画の快楽がある(わたしはこの時代のフランス映画のパリのミニチュアセットがたまらなく好きなのだ)。殺人を犯したばかりのジャン・ギャバンがビルから出てきた直後に、酔っぱらいの女に捕まり、なんとか手を振りほどいて立ち去ったあと、女が服に付いた血に気づいて「血よ!」("du sang" デュ・サン)と叫ぶと、女の背後の道路標識に沿ってカメラがパン・アップし、「サン・ヴァンサン通り」("Rue St. Vincent" リュ・サン・ヴァンサン)と書かれたパネルを映し出す。女の言葉と通りの名前が妙に韻を踏んでいることになんだかざわつく思いがし、思わず期待が高まるのだが、直後に舞台がバロセロナに移ってからは、フランス的な、あまりにもフランス的なロマネスクな物語がどうにも鼻につき、退屈で仕方がなかった。ギャバンにまとわりつく胡散臭い男を演じているロベール・ル・ヴィガン(セリーヌの小説にも登場する俳優)が、最後にギャバンとともに外人部隊として死の遠征に加わり、死を目前に二人の関係が宿敵から友へと変わるところもいささか説得力にかける。しかし、この映画は、ル・ヴィガン出演作のなかで最も印象的な一本と言ってもいいだろう。間違いなく彼の代表作の一つである。眼帯姿のピエール・ルノワールの存在感がこの退屈な作品を幾分救っていることも付け加えておく。
ブラックリストに名前が乗っていた監督ハーバード・J・バイバーマン(ビーバーマンじゃないの?)が監督した『地の塩』は、作品自体の出来というよりは、歴史的な重要性においてその名を今もとどめている作品と言っていい。プロと素人の俳優を織り交ぜて作られたこの映画は、演技だけでなくあらゆる面において素人くさい部分が目立つ。とはいえ、興味深い点は多々ある。メキシコ移民に対する差別を、炭鉱のストライキを通して描いていく過程で、権力に抵抗する側の中にもジェンダーによる差別が存在することを浮かび上がらせていくところは、今見てもちょっと面白い。とにもかくにも、権力に抵抗する者たちを描こうとする作者たちの誠実さは、その素朴な作風から伝わってくる。この作品はフランスでも(少なくとも公開当時は)評価が高く、1955年の「カイエ・デュ・シネマ」ベストテンの14位に選ばれている。ゴダールもときおりこの作品の名前を出すことがあるのだが、それは、彼のいう「政治映画」に対して、ふつうの意味での政治映画の代表的な一本ということのようだ。