明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。










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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ゾルタン・ファーブリ『第五の封印』『メリー・ゴー・ラウンド』

ゾルタン・ファーブリ『第五の封印』(Az ötödik pecsét, 1976) ★★½


監督のゾルタン・ファーブリ(ハンガリー風に言うならば「ファーブリ・ゾルタン」)の名前も、この映画のことも、日本ではほとんど知られていないが、ハンガリー映画史に残る傑作と言われる作品である。IMDb では2000人以上のレビュアーがありながら 8.8 という高得点がつけられている。


第二次大戦末期のハンガリーの首都ブダペスト。灯火管制が敷かれる中、とある酒場に4人の常連客(時計職人、本屋、大工、酒場の主人)だけがひっそりと集まっている。そこに、戦争で片脚を亡くしたという自称「芸術写真家」が飛び入りで参加し、テーブルを囲んでの無駄話が始まる。やがて、一人の男が哲学的な問いを口にする。「もしも、生まれ変われるとして、そのとき、強大な権力を持ち、裕福で、残酷で、自分が悪いことを行っていることを意識すらしていない専制君主=奴隷の主人となるか、弱く、貧しく、主人によって常に虐げられてはいるが、自分は一つとして悪いことを行っていないことに幸福を感じている奴隷となるか、どちらかを選べるとしたら、どちらを選ぶか?」


悩んだ末に奴隷を選び、「偽善者」と罵られる者。そんなくだらないゲームには付き合っていられないと無関心を装う者。悩んだ挙げ句、どちらにも決めることができない者。反応は様々だが、この問いは彼ら全員の心の中に確実にさざなみを立て始める。


翌日、同じ酒場に彼らが集まってこの問題を議論していると、そこに軍服を着た男たちが乱入してきて、彼らは全員逮捕されてしまう。軍事施設への破壊工作を行ったという理由だった。軍服を着た男たちは彼らが犯人ではないことを知った上で、地獄のような拷問を続け、「忠誠心」を試すために彼らに試練を課す。専制者による不条理な暴力を受けるうちに、 彼らのなかであの哲学的問いが 突如現実味を帯びてくる……。


軍人たちの格好は明らかにナチスを思わせるが、よく見ると軍服の腕章はナチのものとは違うし、敬礼のセリフも「ハイル・ヒトラー」とは似て非なるものだ。 だから、最初は、この映画は一種の寓話であって、ハンガリーの過去の歴史をリアルに取材した作品ではなく、出てくる軍人たちも架空の占領軍を描いているに過ぎないのだと思っていた。しかし、よく調べてみると、この映画に登場する軍服の男たちがつけている腕章の十字のデザインは、ハンガリーナチス党、矢十字党のものらしいことがわかった。矢十字党はドイツ政府の協力を得て、終戦直前のハンガリーを政治的に支配していたのだった。だとするならば、この映画はただデタラメに歴史を描いていたわけではないことになるが、それでもこの映画が一種の寓話であって、ここに描かれる歴史は、哲学的・倫理的な問題を提起するための背景に過ぎないことは確かだろう。軍服を着た男たちは、だから、ナチスでもあり、スターリン主義者たちでもあり、あらゆる時代のファシストたちでもあるといっていい。


「第五の封印」というタイトルは、言うまでもなく、聖書の黙示録から来ている。ベルイマンの『第七の封印』でも有名なあのくだりだ。4つの封印が解かれて黙示録の四騎士が呼び出されたあと、子羊は続けて第五、第六の封印を解く。


「小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。」


この言葉は、映画のなかでも、片脚の男によってつぶやかれる。そもそも、4人の常連客に、あとから一人加わって5人となるというのが、封印の数と対応しているのかもしれない。ときおり印象的にアップで挿入されるヒエロニムス・ボスの絵(さらにはそれを人物を使って再現した活人画)もむろんこの黙示録の世界につながっている。彼の映画はいつも、「無力な、小さな人間」を描いてきたともいう。「第五の封印」はまさしくそのような虐げられた人々を象徴する言葉である。


この映画の細部に散りばめられた象徴的意味を読み解くには、宗教的・文化的、その他様々な知識が必要だろう。それ以前に、セリフが多過ぎて英語字幕を追うだけでも大変だったので、できれば日本語字幕付きで見てみたいものだ。しかしそんな機会はまず訪れまい。


もっとも、この映画の肝心な部分を理解するのにそのような知識は必ずしも必要ないだろう。この映画で問われているのはむしろシンプルすぎる問いだ。しかしそれは容易に答えが出せる問いではない。だからこそこの映画は多くの観客を引きつけてきたのだとも言える。それを果たして映画の面白さと言っていいものかどうかわからないが、とにもかくにも興味深い作品ではある。

ゾルタン・ファーブリ『メリー・ゴー・ラウンド』(Körhinta, 1956) ★★


1956年のカンヌ映画祭に出品され、若きハンガリー映画を世界に知らしめた作品。賞こそ取らなかったものの、フランソワ・トリュフォーを始め多くの映画人たちから称賛を浴びた。昨年、2017年のカンヌ映画祭の「クラシック・シネマ」部門で、新しく修復されたプリントが、約60年ぶりに上映されて話題を集めたことは記憶に新しい(この年は、ファーブリの生誕100年にも当たる年だった)。


1956年はスターリン批判があった年であり、この作品はその頃の空気をヴィヴィッドに反映している。映画の物語が設定されている1953年は、スターリンが亡くなった年である。この頃には、コルホーズに不満を抱く一部の農民たちが、コルホーズから脱退しようとする動きがあったことがわかる。コルホーズで働く貧しい主人公の青年は、農家の娘と恋仲だが、娘の父親は、コルホーズを脱退して、娘を金持ちの農家の息子と結婚させようとしている(「土地は土地と結婚するのだ」)。最初、父親に黙って従おうとしていた娘は、周囲の目も恐れぬ青年の強い意志に突き動かされて、初めて父親に反抗する……。


公園のメリー・ゴー・ラウンド(空中にロープで吊り下げられた椅子が回転するタイプのやつ。あれは正式にはなんと言うのだろうか?)のイメージで始まった映画は、他人の結婚式のパーティで、父親や婚約者をそっちのけて娘と青年がダンスするシーンの回転するイメージと共に、古い世代と新しい世代、クラークの集団主義と昔ながらの農民たちの個人主義などなどの対立を、一挙に表面化させる。この場面は、新しいハンガリー映画と、新しいハンガリーを象徴する場面となった。


『第五の封印』を見たあとでは、この作品もスターリン主義時代に作られた映画によく見られるシェマティズムを多少引きずっているようにも思えるが、社会的問題よりも個人の存在に重心をシフトさせた映画の作り方や、先程のダンスのシーンに代表されるような、ダイアローグではなく視覚の斬新さとリズムによって見せてゆくスタイルなどは、ヌーヴェル・ヴァーグの登場にも似たインパクトを当時の観客達に与えたに違いない。