チャン・チェ『残酷復讐拳』(Crippled Avengers, 1975) ★★★
眼や腕など身体の一部を欠落させたものたちがヒーローとして活躍する物語なら、われわれは「座頭市」や「丹下左膳」などで慣れ親しんできた。自分の身体的欠損を、それを補って余りある力へと反転させるヒーローたち。そんなヒーローのイメージに、われわれ日本人は他の国の人間以上に慣れているのかもしれない。そもそも、映画にかぎらず、むかしから童話や昔話の主人公は、自分のなかのネガティヴな要素をプラスに変えて成功を収めてきた。アクション映画においては、それがときとして身体的欠損として形象化されるということだろうか。アクション・ヒーローたちはしばしば瀕死の負傷をして、そこから奇跡の復活を遂げる。盲目や切断された片腕といったかたちでヒーローたちに永遠に刻みつけられた身体的欠損は、かれらが力を獲得するために失わなければならなかった代償なのだろうか。あるいは、ヒーローたちが抱えている身体的欠損は、旗本退屈男の眉間の傷のような聖痕の延長のようなものであるのかもしれない。
それはともかく、障害を背負ったアクション・ヒーローはなにも日本映画の専売特許ではない。特異なアクション映画をを生み出してきた香港映画もまた、そうした障害を持つヒーローたちを繰り返し描いてきた。これまでに何度か取り上げたチャン・チェは、その代表的な監督のひとりである。ジミー・ウォングを主演にしてかれが撮った『片腕必殺剣』『続・片腕必殺剣』『新・片腕必殺剣』は それを象徴する作品と言っていいだろう(のちにジミー・ウォングの監督・主演で撮られる『片腕ドラゴン』や『片腕カンフー対空とぶギロチン』は、その延長線上で撮られた作品にすぎない)。だが、そういう意味では、チャン・チェが監督した数々の武侠映画のなかでも、この『残酷復讐拳』こそは、まさに異形の映画と呼ぶにふさわしい、特異な作品であると言っていいだろう。
"Crippled Avengers" という英語タイトルが端的に示しているように、この映画が語る物語は、このジャンルによくある復讐譚であり、しかもその復讐者たちはいずれも何らかのかたちで身体に障害を持ったものたちである*1。これだけでも十分なのだが、この映画では、その復讐者たちが復讐しようとしている相手もまた、身体の自由を奪われている者であるという設定の徹底ぶりに驚く。
映画は、町の大地主のトー・ティエンタオ(チェン・クアンタイ)が、彼に恨みを持つ3人の襲撃者たちによって妻を殺され(その殺され方も、胴体を真っ二つという残酷なものだ)、幼い一人息子のチャンも両腕を切り落とされてしまうという、壮絶な場面から始まる。十数年後、トーは、切られた両腕に鉄のギブスをはめて武術家となった息子チャン(ルー・フェン)とともに、町を恐怖によって支配していた。ある日、トー親子の傍若無人ぶりを見かねた鍛冶屋のウェイ(ロー・マン)は、彼らに暴言を吐いたために、チェンによって、口も聞けず、耳も聞こえない体にされ、ウェイに賛同した商人のチェン・シュン(フィリップ・コク)は、両目を突かれて盲目にされてしまう。さらには、町で仕事を探していたフー・アクイ(スン・チュン)はチェンに両脚を切り落とされ、偶然彼らと出会って3人のかたきを討とうとした旅の武芸者ワン・イー(チェン・シェン)も、敵に捕まり、頭を万力で締められて、幼児のような知力しかない状態にされてしまう。4人はワンの師匠の元へ向かい、復讐のために武術を学びはじめる……。
普通なら両腕を切断されたチャンが復讐者となってゆく物語になりそうなものだが、彼を襲った3人の襲撃者たちはその場で父親のトーによって殺され、さらには、後に成人した3人の襲撃者たちの息子たちも、それぞれ体の一部を破壊されるだけで(「だけで」という言い方も変だが)、その後の物語にはなにも関わってこない。結局、チャンに復讐するのは、冒頭の場面にはまったく関係がないし、ワンをのぞくと武術家ですらない者たちである。こういう展開も、無駄にサディスティックというか、いかにも倒錯している気がする。
格闘シーンがダンスのように様式化されているのはいつもながらであるが、前回取り上げた『少林拳対五遁忍術』の漫画チックなアクションと比べると全然リアルで美しく、わたしの趣味にはこっちのほうが合っている。チャン・チェの映画を全部見たわけではないが、これは彼の最高傑作の一本と言っていい作品かもしれない。最も完成された作品とはいえないかもしれないが、異様で強烈な印象を残すという意味では、間違いなく彼の代表作である。
ただ、障害を持つヒーローという存在については、もっと仔細に見てゆく必要があるだろう。ヒーローの多くが男性であるという点に注目するなら、ここにはセクシャリティの問題も関わってくる。わたしにはその知識はあまりないが、精神分析的な観点からこれらの作品を解釈してゆくことも可能だろう(たとえば、『新・片腕必殺剣』で主人公の片腕を切り落とすのが女性であることは、精神分析的にどのように解釈されるのだろうか)。さらにはまた、暴力と死によってアイデンティティを獲得してゆくヒーローたちを描くこうした作品を、ファシズム的とみなす論者さえいる。この問題についてはまた機会があれば論じてみたい。
*1:"crippled" は今では差別的表現であり、あえてそれに対応する日本語を選ぶとするなら、「不具の」あるいは「かたわの」という言葉になるだろうが、これもむろん今では差別的表現である。