明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

[時事]カトリーヌ・ドヌーヴら100人の女性が過剰なセクハラ告発を批判


ル・モンド」に掲載されたカトリーヌ・ドヌーブの(ものとされる)発言が話題になっている。#MeToo をきっかけに過剰になってゆくセクハラ告発に対して、女性の立場から異を唱えたものである。これに対しては、彼女の姿勢を称賛するものや、逆に、批判するものなど、日本でも様々な反応がすでに出ている。しかし、元の記事を読めばわかるように、ツイッターなどでドヌーヴの発言として言及され、リツイートされている言葉は、実は、どれも彼女自身が言ったものではないし、このテクストも彼女が書いたものではない(彼女の発言だという事実がどこかにあるのなら教えて欲しい)。

問題のテクストは、Sarah Chiche (作家・臨床心理学・精神分析), Catherine Millet (美術批評家・作家), Catherine Robbe-Grillet (女優・作家), Peggy Sastre (作家・ジャーナリスト・翻訳家), Abnousse Shalmani (作家・ジャーナリスト) によって書かれ、そこに100人の女性が連名で署名している。ドヌーヴはその中のひとりにすぎないのだが、そのなかでは彼女が圧倒的に有名であるためか、なぜか全て彼女の言葉ということにされて情報が拡散してしまったようだ。これは、最初に紹介した日本語の記事がずさんで曖昧だったためだろう。ドヌーヴも署名しているのだから、当然彼女はテクストの内容に概ね賛同していると考えていいと思うが、彼女が発言したわけでもない言葉を、彼女の言葉としてとりあげて、彼女を称賛したり批判したりするのは、また別問題である。

ついでなので、問題のテクストをざっと訳しておく。
http://www.lemonde.fr/idees/article/2018/01/09/nous-defendons-une-liberte-d-importuner-indispensable-a-la-liberte-sexuelle_5239134_3232.html#meter_toaster



追記
この記事がきっかけでカトリーヌ・ドヌーヴに批判が集まったのは、日本での記事の紹介のされ方が中途半端であったせいかと最初は思ったのだが(それも大きな一因を占めていると思うが)、どうもそれだけとは言い切れない。というのも、この記事をきっかけにして、フランス本国を始めとして様々な国で、やはりドヌーヴに批判が集中してしまっているようなのである。彼女くらい国際的に有名な女優だと、このような反応をされるのも致し方ないのか。

そのためにドヌーヴは、「リベラシオン」紙上に、釈明する記事を書かざるを得なくなってしまった。彼女はそのなかで、この問題についての自分の見解と立ち位置を、自分の言葉で明確に語っている。ぜひ、こちらも合わせて読んでいただきたい。

幸い、様々なフランス映画を積極的に紹介する活動をされていることで知られる坂本安美さん(アンスティチュ・フランセ日本の映画プログラム主任)が、この記事を日本語に翻訳されたものがすでに存在するので、リンク先を書いておく。仏語の原文はこちら

http://www.nobodymag.com/report/n/abi/2018/01/201814.html


レイプは重罪です。けれども、しつこかったり不器用だったりしてもナンパは犯罪ではないし、女性を口説くこと(galanterie)*1はマッチョな攻撃ではありません。

ワインスタイン事件によって、女性に対する性的暴力が、とりわけ、 権力を悪用する男性がいたりする職場環境における、女性への性的暴力が、正当に意識されるようになりました。こうした問題が意識されるようになったこと自体は、必要なことでした。しかし、自由に発言できるようになった女性たちの矛先が、いまや逆方向に向かいはじめました。わたしたち女性は、しかるべく話し、女性たちの気分を害することは言わないように命じられ、この厳命に従わない女性は、裏切り者であり、男たちの共犯者とみなされてしまうのです。

ところで、いわゆる共通の利益の名のもとに、女性を保護し、解放するという口実を持ち出すことによって、彼女たちをよりいっそう永遠の犠牲者の状態に鎖でつなぎとめようとすること、かつての魔女狩りの時代のような、男尊女卑の悪魔たちによって支配されたか弱い者の状態に、鎖でつなぎとめようとすること、これこそがピューリタニズムの特性なのです。


密告と告発

実際、#MeToo の運動は、出版物やソーシャル・ネットワークにおいて、個人を密告したり、公に告発するキャンペーンを引き起こしました。告発された個人は、答えたり自己弁護したりするのを許されることなく、性的犯罪者とまったく同列にあつかわれました。この手っ取り早い正義の裁きは、すでにその犠牲者を生み出しています。男たちは、仕事において処罰されたり、辞職を余儀なくされたりしていますが、彼らが犯した唯一の過ちというのは、仕事上の会食の席で女性の膝をさわったり、無理やりキスをしたり、親密な言葉を囁いたりしたことや、性的な意味にも取れるメッセージを、自分に気のない女性に送ったりしたことだけなのです。

《豚ども》を屠殺場送りにしようとするこの熱病は*2、女たちを自立させるどころか、実際には、性的に自由な敵たちを、宗教的な過激主義者たちを、最悪の反動主義者たちを、さらには、善の根幹をなす概念とそれに似合うヴィクトリア時代のモラルの名のもとに、女は《別の》存在であり、大人の顔をした子供であり、保護されるべき存在であると考えるものたちを、利するだけなのです。

男たちは、罪を告白し、そして、ここ10,20,30年の間に自分たちが犯したかもしれない「不適切な行い」を、振り返って意識の奥底に探し出し、それを後悔するよう、面と向かって促されます。大衆の面前で懺悔する、検事を自任するものたちが私的な領域へ闖入してくる、こうして全体主義的な社会の空気が定着するのです。

清浄化の波はとどまるところを知りません。エゴン・シーレの裸婦画を使ったポスターを禁じるものがいるかと思えば、幼児性愛を擁護しているとの理由で、バルチュスの絵を美術館から外せというものが現れます。作者と作品の混同から、シネマテークでのロマン・ポランスキーの回顧上映は禁止され、ジャン=クロード・ブリソーの回顧上映は延期になりました。ある大学は、ミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』を、「女性嫌悪」の作品であり「受け入れがたい」と見なしました。この修正主義に照らすならば、ジョン・フォード(『捜索者』)もニコラ・プッサン(『サビニの女たちの略奪』)も気が気でないでしょう。

すでに、わたしたち[女性作家]のなかには、男性の登場人物の「性差別主義」の度合いを弱め、性行為と愛についてあまり度を越して語らないように、さらには「女性の登場人物が受けた心的外傷」 についてもっとあからさまに書くように(!)編集者に求められているものもいます。滑稽の極みですが、スエーデンでは、性的交渉を持とうとするものすべてに、同意の意思を明確に伝えなければならないという法律が制定されようとしています。ここまでくればあと一歩で、セックスしたいと思っている大人のカップルは、携帯のアプリで予め、自分たちが承諾できる行為と、承諾できない行為をリストアップした書類にサインしなければならないということになるでしょう。


欠くべからざる人を害する自由

哲学者のリュヴェン・オジアンは、芸術的創造に欠かすことのできない、人を害する自由を擁護していました。同じように私たちは、性的自由に欠かすことのできない、うるさく言いよる自由を擁護します。わたしたちは、性的な衝動がもともと人を害する野蛮なものであることを認めるだけの知識をもっていますが、同時に、不器用なナンパと性的攻撃を混同しないだけの洞察力も持っています。

なによりも、わたしたちは人間というものが一枚岩でできてはいないことを知っています。一人の女性は、同じ一日の間に、職場のチームリーダーを務めると同時に、男性の性的対象であることを享受しながら、それでいて「アバズレ」にも家父長制の卑しい共犯者にもならないでいることができるのです。女性は、自分の給料が男性の給料と違いがないように注意を払う一方で、地下鉄の痴漢に(たとえそれが犯罪であったとしても)決して心を傷つけられたりしないでいることもできるのです。女性は、それを大いなる性的貧困の表れとみなし、それどころか、とるに足らないこととみなすことさえできるのです。

職権乱用(セクハラ)を告発するだけでなく、男性も性行為も憎むたぐいのフェミニズムには、女としてわたしたちは違和感を覚えます。性的なくどきにノーという自由は、うるさく言いよる自由を必ず伴うものであるとわたしたちは考えます。そして、このうるさく言いよる自由に対しては、獲物の役割に閉じこもる以外のかたちで、答えるすべを知らなければならないと考えます。

わたしたちのなかで子供を産むことを選んだ人たちに対してはなおさら、自分の娘が、怖気づいたり、罪悪感を覚えたりすることなく、十全に人生を生きることができるように、知識を与えられ、自覚を持つように育てることが、適切であると考えます。

女性の身体に触れるアクシデントは、必ずしも女性の尊厳を傷つけはしませんし、ときに耐え難いものであったとしても、それが必然的に女性を永遠の犠牲者としてしまうことがあってはならないのです。というのも、わたしたちはわたしたちの身体に還元されるわけではないからです。わたしたちの内的な自由は侵すことができません。そして、わたしたちが大切にしているこの自由には、必ずリスクと責任が伴うのです。

*1:"galanterie" はふつう、「女性に対して礼儀正しいこと」、あるいは、「女性に優しい言葉をかけること」を意味する言葉。

*2:フランスでは、#MeToo に代わるものとして #balance ton porc (お前の豚を厄介払いしろ)というタグが使われている。