マルコ・フェッレーリ*1は見逃している作品がまだまだ多くて、全体像をつかみかねている。もう少し作品を見てからまた改めて書きたいと思うが、とりあえず、最近見た数作品について順に覚書を書いてゆく。
マルコ・フェッレーリ『猿女』
(La donnna scimmia, 64) ★★½
したたかにずる賢く生きている興行師の男(ウーゴ・トニャッツィ*2)は、偶然見つけた全身毛むくじゃらの女(アニー・ジラルド)を、アフリカで発見した珍種の猿女と銘打って見世物小屋をはじめる。外見を恥じて長いあいだ世間を避けてきた女は、自分を商売道具としか見ていない男にだんだん心を許してゆき、やがて彼に結婚を迫るようになる。男は、愛というよりも、商売道具の女を自分のものにしておいたほうがなにかと便利だというくらいの気持ちから、女と結婚する。猿女の見世物は評判を呼び、ふたりはついにはパリで公演を行うまでになる。この頃には、女は、裸同然で客に向かって尻を振るまでになっていた。そんな時、女が妊娠していることがわかる。医者によると、出産は彼女自身とお腹のなかの胎児の命に関わるらしい。それでも女はなんとしても子供を生みたいという……。
テーマ的には、『フリークス』や『エレファント・マン』とも重なってくる興味深い作品だ。
この前年に撮られた『女王蜂』には、レイプされかかった女が、こんな目に合わないようにわたしの体を毛むくじゃらにしてくださいと神に祈る場面がある。だから、『猿女』が撮られたのはある意味そこからの当然の帰結だった。一見、デタラメに作られているようでいて、フェッレーリの作品はすべてあるロジックでつながっているのかもしれない。と考えると、結局、一本一本見ていくしかないのだろうか。とりあえず、今わかっているのは、フェッレーリが『バイバイ・モンキー/コーネリアスの夢』(77) で再び霊長類を描くということだけだ(ちなみに、「ゴリラ」という言葉は、語源的に、「毛深い女」を意味するという説がある)。
この映画は、トニャッツィが、アフリカかどこかの珍しい部族の写真をスライドで見せているシーンから始まっている。見たこともない姿をした人間たちを見て大笑いする白人たち……。この人類学的視点はフェッレーリの映画作品で繰り返し描かれていくことになるだろう。「映画史上ただ一人のダーウィン主義者」と、だれかが彼のことを評していたが、この言葉はフェッレーリの作品を多く見れば見るほど真実に思えてくる。
映画のラスト、出産に失敗した女は病院のベッドの上で死に、胎児も死んだ状態で生まれてくる。その時だけはたぶん本気の涙を流していた男が、しばらくすると、博物館に展示されることになっていた女のミイラ化された死体を、所有権を主張して奪い返し、それを出し物にした見世物小屋を性懲りもなくはじめるところで映画は終わっている。見ようによっては、フェリーニ『道』の意地の悪いパロディとみなすこともできる作品だ。
(ところで、この最後の部分で、妊娠した女が顔をさすると毛が抜け落ちるというシーンがある。どうやらこれは医学的にも正しいらしい。しかし、彼女が死んだあとで、トニャッツィが顔に髭を生やして登場するのは、フェッレーリの創作だろうか?)
一見ありそうもない話だが、実はこの映画は、かつて実在した多毛症の女性ジュリア・パストラーナの生涯に基づいたものなのである。女が病院で命を落とすというのも実際の顛末通りらしい。ただし、映画のこの結末はあまりにも救いがないということから、海外版などではもう一つのエンディングに差し替えられた。