明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

モンタージュをめぐる座談会2


リヴェット:ちょっと回り道になりますが、おそらくここで、ダイレクトとモンタージュの関係の問題に立ち戻らねばなりません。というのも『世界の続きのために』のような作品は、ペローが(ルーシュと同様に)、素材(定義からして、映画の「企画」よりも過剰な)の選択と整理としてのモンタージュの段階を素早く乗り越えることができたことを、非常に明確な形で示しています。また、この作品が、たんなるドキュメントとしての価値を超えた詩的な価値を身につけるのは、その素材が、非常に明確な形式的図式のうちにまるごと回収されると同時に、弁証法的にその図式を暗に示し、それに情報を与える限りにおいてだということを、示しています。以上のことは、ショットとショットの関係のレベルにおいてと同様に、(音楽的な)変化 (mouvements) と(フィクショナルな、あるいはテマティックな)チャプターへの作品の構造化のレベルにおいても、言えることです。これは、『光の支配』においていっそう明確に見て取れることであり、それは[ルーシュの場合]『ジャガー』や『われは黒人』よりも、『La Chasse au lion à l'arc』においてのほうが、モンタージュの創造的介入がよりいっそう明白であるのと同じです。『ジャガー』と『われは黒人』は年代記形式 (forme-chronique) に近く、『La Chasse au lion à l'arc』は叙事詩形式 (forme-épopée) に近いといえます。
 今の考察から、もう一つの考察、もう一つの類似性が浮かび上がってきます。エイゼンシュテインの場合、撮影前の段階から(撮影中にはなおさら――それが、複数のカメラのしばしばシステマティックな利用によるものに過ぎないにしても*1)モンタージュの視野が (horizon) が入り込んでいたように、このダイレクト・シネマの映画作家[ペローのこと]は、モンタージュのための素材を、このナマの素材を、あとで再検討し、そういうものとして破壊することを視野 (horizon) におきながら、撮りためているということです。この展望 (perspective) は、カサヴェテスにおいても同様の原動的な役割を演じています。もっとも、それは、カサヴェテスによる「テクスト」(この段階では、意味によって不意をつかれた最初の「出現」状態にあるプレ・テクスト)の捕獲 (captation) の実践によってもたらされるドラマツルギー(ただし、しかじかの素材の使用によってラディカルに表され、蝕まれた、つまりは方向をそらされ、ひっくり返されたドラマツルギー)の視点から見られたものにすぎないとしてもです。*2
 逆に、『妥協せざる人々』の場合、モンタージュの細部は厳格に制御されていることが、ストローブが一つひとつの結合=つながりを締めたり緩めたりし、テンポのヴァリエーションで戯れていることが、要するに、映画の原理を編集台に帰着させていることが、よく見て取れます。しかしまた、完成作品の「予想」に従って、厳密に必要なものだけが撮影されていたことが、この映画は、脚本の段階から、その素材に先立って存在していたことが、見て取れます。けれども同時に、この凝縮し、選択し、整理しなおす仕事は、実は、基底をなす一つの広大な素材(ハインリッヒ・ベルの『九時半の玉突き』が、この作品においては、ふつう「脚色」と呼ばれるものとはもはや何の関係もない、縮減 (réduction)、解体 (dislocation)、変換の作業を被っています)を出発点にして、なされていることにも着目すべきです。従って、この作品においては、脚本の準備的な作業がモンタージュとして機能しているということです*3


 さらにストローブは、観客に(少なくとも初見の何も知らない観客に、しかしまた、部分的には、2度め3度めの観客にも)、執拗に方向をそらされ、目的地は観客であることを知らないような、不明瞭な言語を課していて(もっとも、この言語は、それとなく、その機能をはたしているのですが)、この不明瞭な言語は、それが観客に伝えることになっているように思える「知」に、観客がたどり着くのを妨げています((これは、難解にしようとする意図からではなく、その逆に、ストローブは、ふつうは順々に、締まりなく使われる諸機能 fonctions(つながりの厳密さ、諸要素の自律)を、すべて同時に働かせてその融解点にまで推し進め、要するに、観客が慣れている曖昧な部分をあまりにも少なくしてしまうからだ。同様に、ここには、それが「難解」であるのは論理とスピード、明晰さゆえでしかないマラルメの詩に似た側面がある。))。この映画は、観客の目の前で、まるで夢のように、一つの無意識の産物であるかのように(だが、だれの無意識でしょうか。文学的テクストの? ドイツ50年の歴史の? ストローブ=ユイレの? 映画の「登場人物」自身の?)作用し、その構造は、言葉 (mots) そして/あるいはイメージの戯れの極みにある無数の文学的な交差と残響のみでできているのであり、情報をもたらすすべての要素もまた、パズルにとらわれていて、位置をずらされ、覆い隠され、ごちゃまぜにされているのです。例えば、あの母親による中心をなすモノローグ(このモノローグが、 (faisceau) の構成要素が集束かつ分岐する場所に置かれているのは偶然ではありません)、あれは、そこにおいてすべての時間とすべての空間が衝突し、混ざり合う(モンタージュ/ミキシングの作業において回収される)時間=空間のディスクールなのです。ところで、この映画の数時間後に『ゲアトルード』の再映がわれわれに突きつけたのも、これと非常に似たような問題でした。[『妥協せざる人々』と比べて]より「論理的な」、とにもかくにもよりクロノロジックな[年代順に語られる]ドライヤーのこの作品は形式的には夢のように作用しないにしても、この映画もやはりまた、「夢のような」(onirique) ボキャブラリーを課してきます。夢の物語であると同時に、分析の時間 (séance) です(そこにおいては役割が絶えず交換される分析。流れに、長回しショットの規則的な流れに従う分析、休みなく動くカメラの動きの催眠術師のような手わざに (passes magnétiques)、様々な声の単調なむらのなさに、視線の固着に、つねにそむけられ、しばしば観客に向かって平行に、観客のわずかに上方に向けられた視線の固着に従う分析、長椅子やソファにすっぽり収まり――その背後ではもう一人が沈黙したままでいる――、儀式的な姿勢のうちに固まった身体――そこでの身体は、言葉が通過して、光のゾーンによって恣意的に区切られた薄明かり、そこに夢遊病者たちがひとりでに収まりにくる薄明かりのなかへと滑り込んでゆく場所でしかもはやない――のぎこちない動きのなさに従う分析)。従って、この2作品は、無意識という言葉で示されるもの「すべて」と作品の機能の仕方(働き (operation))との間にある同じ類似性を、2つの異なる道を通って、認めさせているわけです。しかし、同時に、この2作品においては、根本的な作業は、意図と脚本(écriture) の段階でなされていたように思えます(ストローブにおける最初のテクストの粉砕。ドライヤーにおける最初のテクストの凝縮と「濃縮」(concentration))。最後に、この2本の作品においては、モンタージュの契機(モーメント)が、この作業の完遂として、そしてまた、恣意的なものの介入として、「働いている」(joue) ということです。ところで、モンタージュというこの「謎めいた」機能は、ドライヤーの作品に常に存在し、欠如=欠落(検閲のしるしでしょうか?)を「課すこと」を通じて作用しています。『あるじ』における一つひとつのショットの始まりと終わりは、どのように、その(いつも部分的に欠落のある)運動の中で、体系的に中断され、細切れにされ、隠されているか、つまりは、いくつかのイメージの「間違った」つなぎになっているか(このことは、『裁かるるジャンヌ』について、よりいっそうあてはまります)。『吸血鬼』から『奇跡』に至るまで、ドライヤーは、どのように、ほとんどすべてのカメラの動きを、途中で掴んで、断ち切って(カットして)いるか。最後に、『ゲアトルード』においては、2つの流れるようなショットが接続される部分 (collure) において、3つか4つの省略的切断 (coupes-ellipses)が、シーンのいわゆる連続性(コンティニュイテ)に静かに介入してきます。挑発的で、意図的に調子を狂わせる省略であり、観客は、例えば、ゲアトルードはどこに「行ってしまった」(passé) のだろうか、などと自問せざるを得なくなります。ところで、ゲアトルードはその接合部分 (collure) のなかへと移行していったのです。そしておそらく、モンタージュの段階において(モンタージュに、撮影前のテクストを書き写させるだけにとどめたり、ブレッソンのように、何よりも「音楽的」な役割だけをモンタージュに演じさせるかわりに)、脚本 (écriture) のなかに(それが、モンタージュ以前の段階において、どれほど正確で、注意深いものであったとしても)、このような切断、断絶、跳躍、つまりは非合理なものを故意に導入しようとする意志によって、文字の戯れによる罠にかけられた無意識 (in-conscient) の「移行」が行われるのです。

ナルボーニ:今ブレッソンについてなされた音楽への言及は、ストローブの全作品についても当てはまるものでしょう。ストローブの映画は、この方向に向かう関心によって形作られており、[映画と音楽との]ありうる相当性の探求なのです。いささか適当に例を挙げるならば、テンポの分配と配合、交互に現れる緊張のゾーンと緩和のゾーン、濃密な核の部分と沈黙の部分 (plages) 、「細胞」の自律と相互依存の複雑で変化する戯れ、大きなブロックあるいは点のような要素による、持続と断絶による構成、極めて骨組みのしっかりした構造とより「自由な」構造のコンビネーション、要するに、かつて否定されたストラヴィンスキーによる表現性の拒絶の原理の適用です。シュトックハウゼンが『マホルカ・ムフ』について書いた言葉を思い出しましょう。この言葉はストローブの全作品に当てはまるものです。
「あなたの映画で興味深いのは、音楽の場合におけるような、映画固有の時間の組み立て方 (composition) です。あなたは、出来事にほとんど動きがない場面(比較的短い長さに縮められたこういう作品において、間(ま)やゆっくりとしたテンポを用いるのはどれだけ勇気がいることでしょう)と、出来事が極めてスピーディである場面(まさにこのために、新聞の切り抜きを、画面の垂直に対してあらゆる角度で引用するという才気煥発)との間に、見事な持続の均衡を実現なさいました。加えて、様々なテンポにおける変化の比重も素晴らしい……。一つひとつの要素を、それなしでは考えられないような、それ自身のかけがえのない瞬間においてもたらすこと。何の飾りもなく。「すべてが必要不可欠 (essentiel) である」と、ウェーベルンはこういう場合に言っていました(ただし、それぞれのものが、それ自身の時間において、と付け加えねばなりませんが)……。街路やホテル(実に素晴らしい場面です。ホテルの部屋のずっとつづく何もない壁。その《剥き出しであること》から観客は逃れることができません)や、窓辺に置けるにおけるカメラのあの先鋭化、あの驚くほど素早い動き、それに時間の「非現実的な」凝縮。とはいえ、観客はせかされるわけではないのですが。真実、濃縮、(現実の知覚に炎を上げて突き刺さる)先鋭化の鋭い稜線の上に、進歩は可能になるのでしょう」

 20分間で語られる、西ドイツのある高官の、極めて出来事に富んだ一日[『マホルカ・ムフ』のこと]について当てはまるこの指摘は、ドイツの歴史 (l'Histoire) の負けず劣らず[出来事の]詰まった50年間を、55分の映画に加工し、変更した作品(『妥協せざる人々』)や、30年間にわたる並外れた音楽的創造活動を、1時間30分間のイメージとサウンドの展開に変えた作品(『アンナ・マグダレーナ・バッハの年代記』)にも当てはまるでしょう。

*1:「不慮の出来事の機能」について書かれたノエル・バーチの記事(「カイエ」194号)を参照。

*2:ダイレクト・(サウンド/シネマ)は何の「証明」であるか? まずは、ジャン=ルイ・コモリによる記事「Le détour par...」を参照のこと。ダイレクト・サウンド=「現実」の断片の出現を示す徴、歴史 (Histoire) のとある瞬間(今・此処 (hic et nunc) 、しかしすぐさま、過ぎ去った・他所となる)における偶発的な何ごとかを捕獲する作業 (opération de captation) の痕跡。撮影=捕獲 (prise) は、[カメラという]機械による「出来事」、[カメラと現実の]出会いによる最初の書き込み (inscription) から生み出される。だから、ラッシュは、まさに生まれんとしている状態にある映画である。そして、モンタージュとは、継起する映像-音声どうしが、そして同時に[フィルムの]映像トラックと音声トラックが出会い、 死後の (posthume) 状態である完成した映画 (<> film) へと向かってゆくという戦略 (tactique) である。「…」

*3:もっとも、明記しておかねばならないのは、この映画を支配している口頭のディスクール、というよりもディスクールの断片の「セリー」の働きによって、ストローブは、(最初の「処理=準備稿」 (traitement) のあとで)この作品の最終的な構成をいわば強制されているということである。