明るい部屋:映画についての覚書

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

マルコ・フェッレーリ『白人女にさわるな! 』ーーカスター将軍と映画についての覚書


マルコ・フェッレーリ『白人女にさわるな!』(Touche pas à la femme blanche ! , 1974) ★★½


ジョージ・アームストロング・カスターは、イエス・キリストヒトラーほどではないにしろ、映画史上もっとも神話的な人物の一人と言っていいだろう。サイレント時代のフランシス・フォードの『The Last Stand』から、ウォルシュの『壮烈第七騎兵隊』をへて、ロバート・シオドマクが最晩年に撮った彼の唯一の西部劇『カスター将軍』(もともとは黒澤明が監督するはずだった)、そしてアーサー・ペンの脱神話的西部劇『小さな巨人』に至るまで、数々の西部劇がこの複雑なイメージに彩られた人物を好んで描いてきた。そこに、ロナルド・レーガンがカスターを演じた『カンサス騎兵隊』やそれよりもずっと出番の少ないデミルの『平原児』のような作品、あるいはカスターという名前の人物こそ登場しないが、明らかに彼と第七騎兵隊を題材にしたと思われるジョン・フォードの『アパッチ砦』、さらには最近の『ナイト・ミュージアム2』のような作品まで加えるならば、カスターが登場する映画は、これまで数限りなく撮られてきたと言ってもいい。だが、そんな数あるカスターもののなかでも、マルコ・フェッレーリがフランスで制作した『白人女にさわるな!』ほど奇妙な作品はないだろう。『最後の晩餐』がスキャンダルを巻き起こし、それで懲りたはずなのにまたこんな珍作を撮ってしまうところが、フェッレーリのフェッレーリたるゆえんかもしれない。



『白人女にさわるな!』に描かれるのは、多くのカスターものと同じく、リトル・ビッグ・ホーンにおけるカスター率いる第七騎兵隊とインディアンとの戦いである。しかし、フェッレーリはふつうの意味におけるリアリズムにはまったく関心を払っていない。19世紀のアメリカで起きたこの神話的出来事が、この映画においては、同時代の(つまりは70年代初頭の)パリで、全員フランス語を話す俳優たちによって演じられるのである。カスターは、初めて画面に登場する時、汽車ではなくモダンな電車に乗ってパリの北駅に降り立つ(なぜ彼が北からやって来るのかも謎だ)。駅のホームには、北軍の軍服をまとった俳優たちに混じって、カートを押して歩く今風のフランス人女性などの乗客の姿が見え、当時の北駅の風景がふつうに画面に写っている、といったぐあいである。(ちなみに、リトル・ビッグ・ホーンでカスターらの第七騎兵隊が全滅する戦いが起きたのは、この映画が撮られた1974年のほぼ100年前の、1876年のことだった。)

しかも、よりによってマルチェロ・マストロヤンニに、ジョージ・アームストロング・カスターをこの上なく愚鈍で滑稽に演じさせ、さらには、見栄っ張りのバファロー・ビル役にミシェル・ピコリを、カスター中佐の上官であるアルフレッド・テリー将軍*1役にフィリップ・ノワレを、カスターを惑わす『オセロ』のイアーゴめいたインディアン斥候役にウーゴ・トニャッティを起用するという(つまりは『最後の晩餐』の4人組)キャスティングがふざけている。アラン・キュニーがシッティング・ブルを、セルジュ・レジアニがクレイジー・ホース(?)をという、インディアンの配役もでたらめであるが、見ているうちに全員しっくりしてくるのが不思議だ。(しかし、そもそも、 イタリアはマカロニ・ウェスタンの国であったことを忘れてはならない。)

天井桟敷による実験的な市街劇を多少思い出させもする作品だが、俳優たちは自分たちが現代のパリにいることは決して口にせず、あくまで19世紀のアメリカに生きているふりをしている。彼らが同時代に言及するのは、2年前(72年)に起きたウォーターゲート事件ニクソンの名を口にする時だけであるといっていいかもしれない。テリー将軍らの出入りする部屋の壁や机の上などあちこちに飾られた肖像写真によってもニクソンの存在は強調されている。これだけでも、この映画が政治的な含みを持たされていることは明らかだろう。実際、アメリカ映画の(ということはアメリカの)象徴であると言っても過言ではない*2西部劇は、ニューシネマの時代には反西部劇というかたちで、ある種政治的な意味合いを持たされることになるし、ゴダールの『東風』(実は、フェッレーリはこのゴダール作品にチョイ役で出演している)やリュック・ムレの『ビリー・ザ・キッドの冒険』などといった作品においても、西部劇のわかりやすい表象は、資本主義や政治体制を批判するために《政治的に》活用されていた。もっとも、フェッレーリのこの映画が非常に政治的な作品であるのは確かであるとしても、そのターゲットはアメリカでもニクソンでもない(少なくとも、それだけではない)。

『白人女にさわるな!』の中心をなし、クライマックスのリトル・ビッグ・ホーンの戦いの場所となるのは、かつて「パリの胃袋」と呼ばれたレ・アルのパヴィリオン・バルタールがあったその跡地である*3。そして、この映画の政治性は、ニクソンの肖像写真ではなく、パリにぽっかり空いたこの《穴》にこそ表れている。デュヴィヴィエの『殺意の瞬間』の舞台ともなった巨大な中央市場レ・アル(前にも書いたが、築地のようなところだと思っておけば良い)は、70年代の初頭に移転され、その跡地には巨大なショッピング・センターが建設されることになっていた。この映画が撮られたのは、ちょうどその解体作業が終わり、しかしいまだ新たな建物の建設は始まっていない時で、そこには何もない巨大な《穴》がぽっかり空いていたのだった。当然、そこにいた庶民たち、あるいはそこを生活拠点にしていた浮浪者やヒッピーたちは、この移転によって立ち退きを余儀なくされる。フェッレーリは、この映画のなかで彼らのような存在を、自分の居場所から追い出されたインディアンたちの姿と重ね合わせて描いているように見える。

フェッレーリがアメリカの西部の物語と現実のパリとを重ね合わせている部分はそこだけではない。映画のなかで、鉄道建設の話題が何度か出てくる。このジャンルに詳しいものならば、西部劇において鉄道が持っている意味を知っているだろう。簡単に言うならば、西部劇における鉄道(あるいは鉄道建設)は、一方において、進歩の象徴であり(例えば『アイアン・ホース』)、他方において、貧しいものたちを搾取するものたちの象徴でもあった(例えば『無法の王者ジェシー・ジェームズ』などのジェシー・ジェームズもの)。ところで、フェッレーリがこの映画を撮っていた時、パリでは実際に、パリ市内と郊外を結ぶ鉄道網 RER(イル=ド=フランス地域圏急行鉄道網)の本格的な開業が進められていたのだった(いま、飛行機でパリに到着する旅行者の多くは、この RER に乗ってパリに入っていくはずである)。フェッレーリは、当時進んでいたこの RER の建設を、西部劇の鉄道神話と重ね合わせているのである(それが成功しているかどうかは微妙だが)。

おそらく、こうした並行関係は、当時のフランスを知るものが見れば、さらに見えてくるのだろう。例えば、カスターを始めとする騎兵隊の隊員たちが着ている制服が、デモなどの鎮圧にあたる CRS(フランス共和国保安機動隊)のユニフォームとそっくりだと言うものもいる。フェッレーリがそういうことを意識していたのかどうか定かではないが、この映画が作られたのは5月革命の熱気がまだ消え去っていない時代であったことを考えると、こういう見方が出てくるのも、ある意味当然かもしれない。

多くの西部劇がそうであるように、この映画の主要な登場人物たちも男たちが占めている。例外は、カスターの心を奪うフランス人女性、マリー=エレーヌ・ド・ボワモンフレ夫人であり、この女性を終始白いドレスをまとったカトリーヌ・ドヌーヴが演じている*4。この映画のタイトル「白人女にさわるな!」の「白人女」とは、実は、ドヌーヴ演じるド・ボワモンフレ夫人のことを直接には指している。カスターのインディアン斥候(トニャッティ)が夫人にさわろうとすると、カスターがこのセリフを言って制する場面が何度か出てくるのである。ハリウッドで映画化されたカスター映画においても、カスターは、多くの場合、多少とも人種差別主義者として描かれてきたが、フェッレーリはこの映画において、人種差別主義者カスターのイメージを極端に推し進めていると言っていいだろう(そもそも、それをタイトルにしているのだから)

ところで、西部劇というジャンルは、時として、フェミニズムなどの立場からその男性中心主義を批判されることが少なくない。その意味においても、フェッレーリはこの作品において一石を投じている。象徴的な場面を一つ挙げるとするならば、プラトニックな関係を貫いてきたカスターとド・ボワモンフレ夫人がついに結ばれる場面であろう。普通ならば男が女を抱えてベッドに向かうところを、フェッレーリは、ドヌーヴにマストロヤンニをお姫様抱っこさせて、ベッドまで運ばせるのである。男女の関係を端的に逆転させたこのシーンに、西部劇のセクシャリティに対するフェッレーリの批判的な態度を見て取ることができる。

成功作か失敗作か訊かれたなら、たぶん失敗作に近いのではないかと思うのだが、それでもフェッレーリのフィルモグラフィーにおいて極めて興味深い作品であることは間違いない。とりわけ、西部劇に関心のあるものなら、必見の作品であると言っておく。


と、真面目に注釈を書いてきたが、フェッレーリがこの映画を作ったのは、たんなる復讐のためだったという説もある。『最後の晩餐』は大きなスキャンダルとなったのだが、その一方で、その醜聞が宣伝となって興行的には大成功したのだった。ところが、何かと問題の多いプロデューサーのジャン=ピエール・ラッサムは、フェッレーリに入るはずだった利益の大部分を彼に渡さず、次の作品の製作費に使ってしまった。フェッレーリはそれに激怒し、復讐を誓う。彼がこの映画を、ラッサム製作で、しかも『最後の晩餐』の俳優たちを使って撮ったのは、『最後の晩餐』の成功に気を良くしたラッサムに、同じレシピで作られたこの次作に巨大な製作費を投じさせた挙句、最終的には興行的に失敗させるためだったというわけだ。事実、『白人女にさわるな!』は興行的には惨憺たる結果に終わったわけだが、「わたしにとっては、成功だった」とフェッレーリは嬉々として語っていたという。


*1:ちなみに、「将軍」というのは、正確には、階級ではない。将官クラスのものならばみな「将軍」と呼ばれることがあるのでややこしい。カスターもしばしば「カスター将軍」と呼ばれる。

*2:アメリカ映画」という言葉は同語反復であるとセルジュ・ダネーは言っていた。なぜならアメリカ=映画であるから

*3:わたしは実物を見たことがないのだが、パヴィリオン・バルタールの骨組みの一部が日本に寄贈されて、いま横浜にあるらしい。これほどの歴史的建造物が、写真で見ると、何だかもったいない展示のされ方をしている気がするのだが。

*4:ハリウッドの西部劇のなかにフランス人や時にはスウェーデン人などの外国人が登場することは珍しくないが、この映画では、そもそもパリでロケされ、全員フランス語を話す役者たちがアメリカ人を演じているというなかでの、フランス人という設定であるから、ここにも一種のパロディ精神が感じられる。