明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。































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神戸映画資料館でわたしが行っている「連続講座:20世紀傑作映画 再(発)見」の詳細が決まりました。

「連続講座:20世紀傑作映画 再(発)見
第8回 パプストとブルックス──『パンドラの箱』を読み解く」
2019年12月22日(日)
詳細はここで。
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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

『デモンズ ’95』『白いトナカイ』ほか

『明日になれば他人』★★★½
『デモンズ ’95』★★★
『荒野の処刑』★★½
『軍用ラッパのロマンス』★★½
『白いトナカイ』★★
『ユン・ピョウ in ドラ息子カンフー』★★




ヴィンセント・ミネリ『明日になれば他人』(Two Weeks in Another Town, 1962)



同じミネリの監督、カーク・ダグラスの主演ということで、どうしても『悪人と美女』との関係を考えてしまう。あれから10年後に撮られた続編として見ることもできるかもしれない(実際、作中で、ダグラスがかつて主演した映画として上映されるのは『悪人と美女』なのである)。しかし、この10年の間にハリウッドはなんと変わってしまったことだろう。そう考えると、この映画の舞台がアメリカではなくイタリアのチネチッタであることはとても象徴的であるように思える。


リタ・ヘイワースが、男をどうしようもなく惹きつけてておきながら、絶えず手の届かぬところにいるファム・ファタールを演じていて、鮮烈な印象を残す。


久しぶりに見直したが、やはりこれはハリウッドの映画づくりを描いたもっとも忘れがたい映画の一本である。



ミケーレ・ソアヴィ『デモンズ ’95』(Dellamorete Delatore)



ミケーレ・ソアヴィによるホラー映画の怪作・快作。「デモンズ」シリーズとはなんの関係もない。そもそも、アルジェントが製作していること以外に「デモンズ」シリーズの一貫性がわからないし、アルジェントが関係していていないこの作品はなおさら別物と考えていいだろう。


夜な夜な墓から蘇ってくる死人たちの見張り番をしている墓守を主人公にしたコメディ・タッチのホラー映画で、こういう設定ならこんな感じかなと鷹を括っていると映画は予期せぬ方向へと展開してゆく。死者たちが蘇ってくるだけなら映画ではよくあることなのだが、主人公が「一生離れない」と愛を誓った市長の娘は、死んでゾンビとなったあげく主人公に頭を撃ち抜かれてもう蘇れなくなったはずなのに、全く同じ顔をした別人として、主人公の前に何度も姿を変えて現れる(オリジナル・タイトルは「死と愛」くらいの意味)。最後は誰が生きていて誰が死んでいるのか、何が現実で何が夢なのかも定かでなくなってくる。ありきたりのゾンビもの、サム・ライミ風のコメディ・ホラー、のようなものだと思って見ていたら、いつのまにかロブ=グリエの世界に迷い込んでいたことに気づいて驚く、とでも言った不思議な感覚を覚える、本当に独創的なホラー映画。ただし全く怖くない。


オタカルバーブラ『軍用ラッパのロマンス』(Romance pro kridlovku, 1967)



若き日の苦い恋の思い出をノスタルジックに描いたチェコ映画の秀作。


主人公の中年男は若い頃、移動遊園地でメリーゴーランドの係りをしていた娘と恋仲になるが、娘は両親によって荒くれ者の射的係りの男との結婚をむりやり決められてしまう。ちょっとした仲違いのせいで、男は馬車で去ってゆく彼女にちゃんと別れを言うこともできない。何十年も経ってから、男は、彼女が結婚することになっていた射的係りの男(彼がラッパを吹くことから映画のタイトルが付けられている)と再会し、彼女がすでに亡くなっていることを知らされる。


主人公がこの射的係の男と再会するところから映画は始まり、彼が体験した苦い恋を描く長い回想シーンがそれに続く。最後に再び現在時に戻ったとき、同じ女を愛した主人公と射的係の男は、真夜中、かつてそこに移動遊園地があった小さな広場に静かに立つ。射的係の男は、女があのあとすぐ病気になり、医者に行くことを拒んで(「たぶん彼女は生きたくなかったんだ」)すぐに亡くなってしまったことを告げると、物悲しい曲をラッパで吹いてから去ってゆく。


川辺で主人公を誘惑する色情狂の女、故郷に帰ることをいつも夢見ている主人公の痴呆症の祖父……。なぜかすべてが懐かしい。これと言って突出した部分があるわけではないのだが、なぜだか忘れがたい印象を残す作品。


ルチオ・フルチ『荒野の処刑』(I quattro dell'Apocalisse, 1975)



イタリアン・ホラーの重鎮たちはたいてい西部劇や史劇も撮っていたりするのだが、どうもそっちの方のジャンルの作品は敬遠しがちだ。しかしそれらの中には拾い物が結構ある。ルチオ・フルチが撮ったこの西部劇もそんな良作の一つと言っていい。


到着した町からすぐに追い出されたけちなポーカー詐欺師である主人公は、同じように町を追い出された妊娠中の娼婦、墓場の死者たちと交信できるという黒人、どうしようもないアル中の男とともに4人で旅を続ける(イタリア語のオリジナル・タイトルは「黙示録の四騎士」)。そこに途中で加わってきた謎の男が次第に悪党の本性を現しはじめ、娼婦を陵辱し、彼らから何もかも奪って去ってゆく。主人公は復讐を誓うが、仲間は一人ひとりと死んでゆき、娼婦も子供を出産すると同時に命を落としてしまう……。


フルチらしい残酷描写はほとんど見られないのだが、旅の途中、食料が尽きたときに黒人がどこかから持ってきた肉が、実は死体からえぐり取った肉だったと後でわかるところなどは、いかにもホラーの重鎮らしい演出だ。頭が完全におかしくなって一人残された黒人が、建物の隙間から彼らが去っていくのを見ている主観ショットも、マカロニらしくないホラー・テイストだった。


前半はわりと普通のというか、どちらかというとゆるい調子のマカロニ・ウェスタンなのだが、後半の展開の仕方が意表を突くというか、とてもオリジナリティにあふれていて忘れがたい。とりわけ、主人公と娼婦が女の住人が誰ひとりいない炭鉱町にたちよったとき、娼婦が突然産気づくと、町の男たち全員が、女の出産を手助けし、子供が生まれてくると皆で祝福する場面は、ジョン・フォード的というと褒めすぎになるだろうが、フルチもこんな場面を撮れるのだなとちょっとびっくりさせられる。


ちなみに、娼婦を演じているリン・フレデリックは当時(?)ピーター・セラーズの妻だった。


エリク・ブロンベルク『白いトナカイ』(Valkoinen peura, 1952)



珍しいフィンランド製ホラー映画。BFI の "10 great European horror films" の一本にも選ばれている古典だが、日本ではほとんど知られていない。


ホラーと言うよりは、雪のラップランドを舞台に描かれる西洋怪談といったほうが近いだろうか。結婚したばかりの若妻が、夫が狩りにでかけている間に、怪しげな祈祷師に恋愛というか、ずばりセックスについての相談をしに行く。祈祷師の教えに従って彼女は、帰り道に出会った最初の「生き物」であるトナカイを生贄に捧げる(一歩間違えれば、最初に出会った生き物は村人の一人だったかもしれない)。しかしそれがきっかけで彼女は呪いにかかり、気づかぬうちにトナカイに変身して、村人を襲い殺すようになってしまう……。


狼男やキャット・ピープル、あるいは「ジキルとハイド」のような変身譚であり、そういう意味ではこれといった新しさは感じない。主人公の変身があからさまに女性の性的抑圧と結びつけて描かれている(彼女の化身である白いトナカイを狩ろうとする男たちはみな殺されてしまう)ところと、作品に描かれているサーミ人キリスト教によって少数民族として抑圧されてきたという民族的背景が物語の根底にあるところが、この作品のユニークな部分である。


ちなみに、ヒロインを演じているのは監督の妻。


サモ・ハン・キンポー『ユン・ピョウ in ドラ息子カンフー』(The Prodigal Son



「イップ・マン」シリーズで有名になった詠春拳の前日譚を描いた作品。


カンフーの道場の一人息子である主人公(ユン・ピョウ)は、自分が誰よりも強い武術の達人であると思いこんでいるが、実は、過保護の父親が、息子が怪我しないように、道場の弟子たちや町の人達に密かに金を渡して、わざと負けさせていただけだった。京劇の女形の役者に挑んでカンフーで負けたことで、彼はようやくその事に気づく。主人公はこの役者の弟子を勝手に名乗り、彼らの旅に無理やり同行するが、役者は何も武術を教えてくれない。そんなとき彼らの前に強敵が現れる……。


サモ・ハン・キンポーも脇役で出演しているコメディタッチのカンフー映画なのだが、それだけに中盤あたりで京劇の役者たちが皆殺しにされてしまうシーンの残酷さが異様に際立って目につく。まあ、どうということのない作品ではあるが、カンフーのシーンはさすがに素晴らしく、これはこれで捨てがたい味わいがある。