「ラングの足は、手同様とても大きく、背筋をまっすぐ伸ばして歩く姿は軍人のようだった。試写が始まってからずっと、彼はそうしてここで外国製の粗末な煙草を吸っては投げ捨て自分の影がいくつも周囲で揺れ動くさまを眺めていた。廊下を行き来するたびに、影は伸びたり縮んだりする。しかしそれを眺めるのにもとっくの昔に飽きてしまった……。片眼鏡を直し、何気なくもう一本マッチを擦った。
と、爆発音が聞こえ、ラングは思わずにやりとした。悪名高い患者マブぜ博士の催眠術に操られて、精神病院長のバウムが化学工場を爆破したところだ。気に入っているショットの一つだった。」
ハワード・A・ロドマンが映画監督フリッツ・ラングをモデルにして書いた小説『運命特急』(Destiny Express, 1990) は、完成したばかりの最新作『怪人マブゼ博士』が上映されている試写室の外の廊下で、フリッツ・ラングがじれったそうに煙草を吸いながら待っているシーンから始まる。
小説の舞台となるのは、1933年のベルリン。1933年とは、むろん、ナチが政権を握った年である。多くの芸術家たちがこの時期、ドイツを捨ててフランスやアメリカに亡命した。とりわけ有名なのは、トーマス・マン、ハインリッヒ・マン、クラウス・マンのマン一家である。この小説でも、冒頭の試写会の直後のシーンで、プラハ行の列車で亡命する直前のブレヒト夫妻とラングが偶然遭遇し、別れの挨拶を交わす場面が描かれている*1。本当にそんな別れがあったのかどうか今のところ確認はしていない。手元にある、パトリック・マクギリガンのフリッツ・ラング伝『The Nature of the Beast』を調べてみたが、そのようなエピソードは見つからなかった(あったこともなかったことも、まるで見てきたかのように書いていくのがこの小説のスタイルである)。
フリッツ・ラングもまたこの年、ベルリン発の列車に乗ってパリへと亡命し(「運命特急」というタイトルはこのエピソードから来ている)、『怪人マブゼ博士』は、結果的に、この最初のドイツ時代に彼が撮った最後の作品になってしまうのだが、この試写室のシーンのラングはそんな自分の未来をつゆほども予感していない。しかし、このとき試写室の中にいた謎の人物──ラングでさえ中に入ることを拒絶される原因となるほどの重要な人物──の存在が、この先彼を待ち受けているであろう「運命」の暗い影をすでに投げかけている。その謎の人物こそは、(これは誰でもある程度予想がつくから、言ってしまってもいいだろう)、ナチス政権が誕生したこの年に啓蒙宣伝相に就任したばかりのヨーゼフ・ゲッベルスであることを、ラングはやがて知ることになる。
ブレヒトとの駅での別れの場面でもすでに、ナチスによる国会議事堂放火事件のことが言及されていた。文字通りきな臭い匂いはもう漂いはじめている。ラングはこの事件を『怪人マブゼ博士』の工場爆破のシーンと頭の中で重ね合わせたりもするのだが、この小説に描かれるラングは、いち早く亡命を決めたブレヒトに比べると、ナチスが及ぼすかもしれない脅威に対していささか鈍感だったようにみえる。ひょっとしたら、それは彼がナチスに対して抱いていたある種の親和性ゆえだったのだろうか。近年になって、ラングは、本人が数々のインタビューなどで周りにそう思わせようとしていたほど反ナチスの姿勢を一貫して明確に示していたわけではないのではないかということが言われはじめている。だが、作者であるロドマンはそのあたりの問題についてはさほど踏み込んではいない。
その一方で、ロドマンは、ラングの二度目の妻である脚本家テア・フォン・ハルボウとラングとのあいだの私生活のすれ違いについては、これもまた見てきたかのようにこと細かに描写していく。この時期、実際には、ラングとテアはほぼ別居状態にあり、テアはインド人の恋人と公然と付き合っていたことが知られている。しかし、小説の中ではなぜか、テアの恋人は、アメリカ人の若者で、シュールレアリストと交際があったり、左翼的な思想をどうやら持っているらしい人物ということになっていて、それが物語の後半にささやかなサスペンスをそえている。ロドマンはラングの視点とテアの視点から交互に描写を進めてゆきながら、二人の内面を雄弁に語ってゆくのだが、その内面描写にもいささかの胡散臭さがないわけではない。いくらフィクションとはいえ、二人は本当にこんなことを考えていたのだろうか、という思いはいくどとなく抱いた。とはいえ、これはこのような実在の人物を登場させるモデル小説にはどうしても付きまとう問題ではあろう。
それはともかくとして、当時ドイツに住んでいた多くの人たちにとって運命を左右することになるこの年が、フリッツ・ラングにとって実際はどのようなものだったのかを、この小説は、伝記本やインタビューなどでは想像できないような、小説ならではの具体的なイメージとともに見せてくれることは確かである。
とはいうものの、フリッツ・ラングやテア・フォン・ハルボウ、あるいはヨーゼフ・ゲッベルスといった実在の人物が登場するとはいえ、ここに書かれていることがすべて事実ではないということは繰り返し強調しておくべきであろう。
ロドマンはあとがきで、この作品を書くにあたってロッテ・アイスナーの『フリッツ・ラング』を貴重な資料として参考にしたと述べている。ラングとはドイツ時代からの友人であったアイスナーが、ラングの全キャリアを一作品ごとにたどってゆく形でまとめ上げたこの伝記的批評は、たしかにフリッツ・ラングを語る上で欠かすことのできない一冊である。ただ、この本が書かれてからすでに50年近くが経過しており、その間にアイスナーが知らなかった様々な新事実が発見されていて、この本の内容はいささか事実とそぐわなくなっていることは指摘しておかなければならない。
この小説にも描かれているように、『怪人マブゼ博士』は、試写を見た関係者による上々の評判にも関わらず突然上映延期が決まり、予定されていた3月23日のプレミアは、ヨハネス・ハウスラーの「恥ずかしい」映画『傷ついたドイツ』に差し替えられてしまう。ロドマンの小説の中には、なぜかこのときベルリンに滞在していたエドガー・G・ウルマーが、上映延期について「ただの間違いさ」と安請け合いする場面が出てくるのだが*2、やがて、ゲッベルスが、「この映画は、ある特定の集団の暴力によってどんな政府も覆される可能性のあることを示している」との見解を示しているらしいことがラングのところにも漏れ伝わってくる(しかし、それが上映延期の本当の理由だったのかどうかは、はっきりとしない。ラングが、母親を通してユダヤ人の血を半分受け継いでいたことも、この決定の理由の一つであったことは十分に考えられる)。
しばらくすると、『怪人マブぜ博士』は、公開延期どころか、どうやらドイツ国内での上映は(少なくとも現行の形では)かないそうにないことが次第にはっきりしてくる。一方、ラングとテアの夫婦関係も修復の兆しは一向に見えない。ラングが未練がましく送るラブコールも、テアには全く届かない様子なのである。こうして、公私ともに生活が行き詰まりを見せ始めていたまさにその時、ゲッベルスからラングに呼び出しがかかったのだった。このときのいきさつはあまりにも有名だ。
無駄に広いいくつもの廊下や広間を通ってやっとゲッベルスの待つこれまただだっ広い部屋に通されたラングは、最悪の事態を覚悟しつつゲッベルスと一対一で対峙するのだが、その時ゲッベルスから、意外にも、ドイツ映画の未来を担う指導者になってほしいと頼まれるのである。ラングはその瞬間、亡命を決意し、ゲッベルスの部屋の高い窓の外に見えるビルの大時計の針が刻一刻と動き続けるのを見ながら、頭の中で、ここを何時に出れば銀行が閉まるのに間に合うか、そればかりを考え始める。結局、銀行には間に合ず、ラングはその日のうちに、かき集められるだけの財産を隠し持って、二度と祖国には戻らないつもりでパリ行の列車に乗ってドイツから亡命する。
ラングがインタビューなどで繰り返し語ってきたあまりにも有名なエピソードである。ロドマンも『運命特急』のなかでこの挿話を、ほぼラングが語ってきた通りに書いている。しかし、このエピソードは、近年、残されたラングのパスポートの日付などの動かしがたい証拠によって、事実にそぐわないことがわかってきた。ラングがこの年にパリへと出国したのは確かだが、実は彼は、その後、少なくとも数回、ベルリンに戻っていたらしいのである。そもそも、ゲッベルスとの名高い会談自体、実際にあったかどうか怪しいと考える人さえいるのである。ラングの映画のファンだったというゲッベルスの日記には、なぜかこの会談のことは一言もふれられていない。つまりは、彼とゲッベルスが会って話をしたと証言しているのは、ラングだけなのである。
ラングがゲッベルスに呼び出されて話をしたのはおそらく本当だったのだろう。しかし、それはラングが語ってきたようなあまりにも映画的でドラマティック、つまりは「フリッツ・ラング的な」ものではなかったのかもしれない。彼はこのエピソードを繰り返し語るうちに、余分な要素や都合の悪い部分を省略してゆき、時にはもともとなかった要素を付け加えさえしていったのだろう(時計の話はインタビューによっては出てこないこともあり、ひょっとするとこれもあとから付け加えられた「効果」なのかもしれない)。何度も繰り返すうちに語りはどんどん洗練されてゆき、ラング自身もどこまでが事実でどこからがフィクションなのか、わからなくなっていったのかもしれない。とにもかくにも、ラングの亡命は、本人が繰り返し語っていたような、素早い決断とサスペンスに満ちたものではなく、もっと優柔不断なものだったことはどうやら確かなようである。
亡命の動機も、ラングがそう思わせてきたように、反ナチスという政治的な理由からだけではなかったのかもしれない。それが大きな要因だったことは言うまでもないが、テア・フォン・ハルボウとの夫婦生活の破綻によってプライドを傷つけられたことも、我々が想像する以上に、彼の亡命に大きく関わっていた可能性がある。ラングはプライドゆえにか、テアとの夫婦関係の破綻については多くを語ってこなかった。ロドマンの小説は、この部分に関して大きく踏み込んで書いていて、ラングがドイツを去る決意をしたのにも、テアとの関係が事実上終わったことが大いに関係していたことを、暗に示す書き方をしている。
小説のラスト。ラングが亡命することを知ったテアが、駅のホームに駆けつける。ゆっくりと動きはじめた列車と並んで歩くテア。ラングが「愛している」というと、スピードを上げる列車について行けなくなったテアが「さようなら」といって立ち止まり、車窓から首を出したラングが「テア」と叫ぶ声が列車の轟音にかき消される。いささかメロドラマティックな終わり方ではある。
何度もいうが、これはノンフィクションではなく、事実をベースに作者ロドマンが書きあげたフィクションなので、想像だけで書かれた部分も少なくない。調べたわけではないが、テアがラングを見送ったというラストも、おそらく全くのフィクションであろう。ただ、フリッツ・ラングについては人より多少知っていると思うわたしが読んでいても、事実かフィクションか見分けがつかない部分がこの小説には多々ある。例えば、一足先にフランスに亡命していたマックス・オフュルスからラングが手紙をもらうエピソードや、彼が『恋愛三昧』のことを大いに気に入っていたという話は初耳である。まだデトルフ・ジールクと名乗っていた頃のダグラス・サークに、ラングがウーファのパーティで会ってたという話も、今のところ事実かどうか確認が取れていない(ダグラス・サークのインタビュー本『Sirk on Sirk』には、ラングについての発言こそあれ、そのような事実は出てこない)。
「エイゼンシュテインのことでは、懐かしい思い出があった。彼がベルリンに立ち寄ったのは、4年ほど前だったか。賭博師マブゼ博士に自分がどれだけ影響を受けたか、『ドクトル・マブゼ』をバラバラに切り離し、いろいろにつないで編集を覚えたのだといったことを、何度も何度も口にしていた。そしてよく冷えた郷愁をそそるウォトカも杯を重ねたところで、互いに父親が年建築家であることを知った。彼、セルゲイもまた、父親の跡を継いで建築家になるよう強く言われていたという」
4時間を超える2部構成の作品『ドクトル・マブぜ』を、ソビエトでの公開用に短縮して一本の映画に編集する作業をしていたエスフィリ・シューブを、エイゼンシュテインが助手として手伝い、その過程で編集の何たるかを学んだというエピソードは比較的有名であるが、ロドマンがこの小説で書いているように、エイゼンシュテインがラングに直にその話をしたという記録がどこかにあるのか、これもわたしにはわからない。
ジョセフ・L・マンキーウィッツとヒッチコックが若いときにウーファで働いていたことも比較的よく知られている。ふたりともラングから大きな影響を受けていることも確かだろう。しかし、ラングがウーファで『メトロポリス』の字幕を翻訳させるために雇ったのがこのふたりだったという話は本当なのか。ロドマンは、ラングは彼らとウーファの社員食堂でよく話したと書いているのだが、手元にあるマンキーウィッツの伝記本『Picgtures Will Talk』をざっと調べてみた限りでは、ラングとマンキーウィッツが知り合ったのは、『激怒』のときが最初だったようである。
こうしてざっと見ただけでも、ロドマンは素知らぬ顔をして嘘のエピソードをいくつも滑り込ませているように思える。とにもかくにも、この小説を読みながら、わたしはまだまだラングについてなにも知らないのだということに気づかせられた。
フリッツ・ラングという映画作家に興味がある人がよんだなら、きっといろいろ発見があるに違いない。ただし、書かれていることが全部本当ではないことだけは注意しておく。
作者のハワード・A・ロドマンについては、わたしはほとんど知らない。訳者のあとがきには、「プレミア」や「ヴィレッジ・ヴォイス」などの雑誌に作品を発表してきた若き作家で、フィクション、映像ジャーナリズムのほか、脚本も手がけるとのこと。この小説が発表された1990年はラングの生誕100周年に当たり、ラング関係のさまざまな出版やイヴェントが行われた年だった。ユーゴスラビアの監督カルポ・ゴディナが、1935年、パリを経てハリウッドに渡ったラングが、映画を撮り始める前の自分を改装するという内容の映画『アーティフィシャル・パラダイス』は日本でも公開されている。