明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


このサイトはPC用に最適化されています。スマホでご覧の場合は、記事の末尾から下にメニューが表示されます。


---


---

評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)


[このサイトは Amazon のアフィリエイトに参加しています。]

ジャン・ルノワール『ゲームの規則』讃



2024年7月13日(土)
神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第20回

「だれの言うことも間違ってはいない」世界
──ジャン・ルノワールゲームの規則』を読み解く

〈予約受付中〉
詳細はここで。


ゲームの規則』は、これぞ映画狂のバイブル、映画のなかの映画だ。[…]『ゲームの規則』は、間違いなく,オーソン・ウェルズの『市民ケーン』とともに、最も多くの映画監督にやる気を起こさせた映画である。たしかに、わたしたちは、この映画を、ある強い共謀意識を持って見る。つまり、わたしたちは、わたしたちの好奇心にさらされた一個の完成品を見ているのではなく、まさに撮影中の一本の映画に立ち会っているような印象を受ける。映画がスクリーンに上映されているあいだ、同時にずっと、ルノワールが仕事をまとめてゆく様子が目に見えるようだ。ともすると「明日もこのシーンが同じように展開するのかどうか、また見に来てみよう」などと思ってしまう。こんなふうにして、『ゲームの規則』という映画は、何度も見たくなる映画であり、実際、何度見ても素晴らしく、一年間に何回かは最高に幸福な時間を過ごすことができるのだ。


フランソワ・トリュフォー


ゲームの規則』(左)と『終電車』(右)のポーレット・デュボスト

(『ゲームの規則」を)1944にやっと見ました。それは今でもわたしの全生涯の中で、映画で得た一番圧倒的な経験であり続けていると思います。映画館からでてきたときの自分を思い出すと、わたしは歩道の端に腰を下ろすしかなくて、そこで5分間じっとしていて、それからたっぷり2時間、パリの街中を歩いたんです。私にとって、あらゆるものがめちゃくちゃにひっくり返されていて、映画についての自分のすべてのアイデアが挑戦されていたんです。そして、この映画を見ているときの私の印象ときたら肉体的にあまりにも強烈だったので、いくつかのシークエンスでは、もしあとワン・ショットさらにあったら、絶叫するか、わっと泣き出すかしていたんだろうと思います。その時以来、もちろん私と同世代のほとんどの映画作家たちもそうですが、私はこれを少なくとも15回は見直しているでしょうね。


アラン・レネ

「筋立てのない」、個人映画の傑作は、ジャン・ルノワールの『ゲームの規則』である。『ゲームの規則』を見ると、ルノワールベルイマンより優れていることがわかる。映画対演劇。ベルイマンがドラマティックなクライマックスによってシーンを盛り上げているのに反し、ルノワールは、どうにかしてそのようなドラマ化を避けようとする。[…]ベルイマンのヒーローは、19世紀のわざとらしい作り物のヒーローであり、ルノワールのヒーローは20世紀の満場一致のヒーローである。ルノワールから何かを学ぶとすれば、それは筋立ての結末(尊大ぶった人間の偽りの知恵)からではない。重要なのはだれがだれを殺したかではないのだ。ルノワールの真実がわれわれの胸に伝わるのは、セリフ、シチュエーション、あるいは構成が、ひそかに、あるいは明らかに、象徴するものを通してではなく、人物の細部、性格描写、反応、関係、動き、それにその演出の方法を通してである。筋立てのないまま映画が進むにつれ、次第に第2次大戦前のフランス貴族の神経組織がそっくりわれわれの前に、見るからに病的に現れてくる。


ジョナス・メカス

大戦直前の1939年の映画である『ゲームの規則』では、ある一つの時代の終わりが、地主たちの最期が描かれています。この映画はある城館の中で、ある大地の上で展開され……というか、『ゲームの規則』だけを見るのではなく、『ゲームの規則』を『大地』とか『彼女について私が知っている二、三の事柄』とかのあとで見るのが面白いのは、これは映画の傑作であるといったこと以外のことが見えてくるからです。サロンの中を動き回ったり、大地の上であのように振る舞ったりしている人物たちを、社会的存在としてみることができるからです。『ゲームの規則』といっしょに一本か二本の社会的喜劇を……あるいは社会的悲劇を映写することによって、土地というものについて……だれがその土地を占領し、だれがその土地から追い払われたのかといったことについて考えることができるわけです。


ジャン=リュック・ゴダール

ゲームの規則』は他のすべての映画の上に屹立している。理由は極めて単純で、この映画にはすべてがあるからだ。一本の映画が、他のすべての映画をまとめて象徴し、映画の可能性のすべてを表現しうるとすれば、その映画こそは『ゲームの規則』である。


ポール・シュレイダー

ゲームの規則』が私にゲームの規則を教えてくれた。


ロバート・アルトマン

ゲームの規則』(左)と『ゴスフォード・パーク』(右)の、雨の中のゲスト到着シーン

わたしに言わせれば、この映画は小さくはない奇蹟だ。第二次世界大戦直前に作られたこの映画は、これから起きる恐ろしい事態の予感に満ちている。しかし映画はむしろ過去の方に顔を向け、フランスだけでなく世界中から消えつつある、古臭くて陰気な社会を映し出す。暴力が、荒々しく、そしてデタラメに、噴出するが、映画自体は、温かさと優しさで溢れている。信じがたい存在の軽によって、我々は映画の中を運ばれてゆき、その軽さが、映画が同時に呼び覚ます苦々しさを、克服するのを助けてくれる。ステディカムが発明されるはるか前に、キャメラがどうやったらこんなにも軽やかでいられるのかに、ただただ驚く。だがしかし、『ゲームの規則』をかくも儚くて半透明なものにしているのは、実は、ジャン・ルノワールのものの見方である。いかなる形の偏見ともこれほど無縁な映画も珍しい。決まりきったことや、型にはまったものは、ここには何一つない。ルノワールがわれわれの眼の前で解きほぐしていくゲームには、何一つルールなどないのだ。友情、信頼、愛、男と女の関係といった、この映画に描かれるどんな事柄についても、われわれはむしろ、先入観をすべて投げ捨てるように促される。約束しよう、この映画を見たあとで、あなたはきっと、より軽やかに旅をすることができるはずだ。(ジャン・ルノワール本人が俳優として出演していることも、知っておくべきだ。熊の着ぐるみを着ている男がルノワールだ! 俳優ルノワールをみているだけで、ただただ楽しい。ご注意を!この映画は病みつきになる!)


ヴィム・ヴェンダース

ジャン・ルノワールの『ゲームの規則』を初めて見たのは、19か20歳のときだった。2度目に見たのはその5年後だったが、映画は夢のように頭の中に残っていた。細かい部分はあまり思い出せなかったが、映画全体が強烈な記憶として残っていた。この映画を見ることは、わたしにとって一つのイヴェント、映画というイヴェントだったのだ。[…]ルノワールが、特に『ゲームの規則』のルノワールが、本当に特別なのは、彼がどの登場人物も等しく愛していることだ。ルノワールは、いいやつも悪いやつも、とんでもない間違いを犯すやつも、愛している。スクリーンにたった2分しか登場しない人物でさえ、彼は愛しているのだ。わたしがずっとやろうとしてきたことは、何かこういうことだった。


ベルナルド・ベルトルッチ