フセヴォロド・プドフキン『脱走者』(Dezertir, 33) ★★
『A Simple Casse』でトーキーを試みたものの果たせずに終わったプドフキンは、この『脱走者』で初のトーキー映画に成功する。
「脱走者」というタイトルからつい戦争映画を想像してしまうかもしれないが、そうではく、工場のストライキを描いた映画である。むしろ「離脱者」くらいのタイトルが適当であろう。労働者運動からの離脱という意味だ。
映画の舞台となるのはロシアではなく、ドイツ(ハンブルク?)の造船所。そこの労働者たちはソヴィエトと密に連絡を取りながら、労働者運動を繰り広げている。工場で働く若者レンは、ストライキやデモに参加しながらも、労働運動の意味を信じられずにいる。ストライキが長引くうちに、労働者のなかには飢えに苦しんで盗みを働くものさえ現れ、デモに対する警察の弾圧も日増しに激しくなってゆく。こんなふうに犠牲者を出してまで、運動を続けてゆく意味が果たしてあるのだろうか。そんな折に、労働者のなかから数名が選ばれてソヴィエトに視察に行くことになる。労働運動のリーダーは、レンが運動に疑問をいだいていることを知りながら、あえて彼を視察団の一員に加える。レンにとって、このソヴィエト行は運動からの「脱走」にしかすぎなかったのだが、ソヴィエトで見た労働者たちの生き生きとした姿に心を打たれた彼は、そこで技師として働くうちに、社会主義の素晴らしさに初めて気づき、ドイツに帰国するや否やデモの先頭に立ち、労働運動に身を投じてゆく。
農夫(『聖ペテルスブルグの最後』)や、母(『母』)や、モンゴル人(『アジアの嵐』)の意識の目覚めを描いてきたのと同様に、プドフキンはここでもひとりの労働者の意識の目覚めを描いている。主人公が行き来するのが、スターリン体制の確立しつつあったソヴィエトと、ナチスによって政権が奪取される直前のドイツである点も興味深い。スターリニズムとナチズムという2つの悪夢にまだ無自覚のまま夢見られる労働者の楽園。ラストの遠ざかってゆく赤旗のイメージをどう解釈すればいいのだろうか。それは未来への希望なのか、それとも希望の遠ざかりなのか。
しかし、その内容以上に興味深いのは、実験的なサウンドの使い方だ。クリスティン・トンプソンは30年代初頭のソヴィエト映画11本を分析した上で、1928年にエイゼンシュテイン、プドフキン、アレクサンドロフによって発表された有名な声明のなかで提示された「対位法的サウンド」の理論にそったイメージとサウンドの分離を「一貫して」用いているのは、レオニード・トラウベルクの『オドナ』とプドフキンのこの作品だけであると結論づけている。この分析が正確であるかどうかはともかく、プドフキンがこの映画で初めてサウンドを扱うにあたって様々な実験を行っていることは確かである。
チャップリンが『独裁者』の最後で演説にたどり着いたように、プドフキンもこの映画のラストで、主人公にロシア人の聴衆を前にしてスピーチをさせている。不思議なのは、前半のハンブルクが舞台の場面では、ドイツ人たちは皆ロシア語を話していたのに、舞台がロシアに移った途端、主人公がドイツ語を話し始めることだ。しかしこれは意図的なものではなかったのだろう。この映画は当初、ドイツ語版とロシア語版の2つが作られる予定だったというので、そのあたりの制作事情が影響しているのかもしれない。
さて、そのスピーチの場面で、主人公がドイツ語で話すたびに、通訳がそれをロシア語に翻訳していくのだが、通訳が入ることによってスピーチと聴衆の反応のあいだに時間的なズレが生まれ、そのズレが主人公の焦るような気持ちを次第に掻き立ててゆくかのように画面が構成されているところが面白い。いわば万国共通の言語であったサイレント映画がトーキー映画へと移行するときに、通訳(吹き替え)の問題が出てくるのは当然だが、こうやって通訳を実際に登場させたトーキー映画というのはひょっとしたらこれが初めではないだろうか(調べもせずに適当なことを言っているのだが)。
ちなみに、ハルーン・ファロッキは、世界で初めて撮られた映画であるリュミエール兄弟の『工場の出口』から始めて、世界の映画史を「工場の出口」という視点から捉え直した作品、『工場を立ち去る労働者たち』のなかで、名もないドキュメンタリー映像もふくめた様々な映像とならべてプドフキンのこの映画を引用して短い分析を加えている。引用されているのは、ハンブルクの工場で、スト破りの労働者たちが積荷を船に運びいれるのを、仕事にあぶれた大勢の労働者たち(彼らはスト破りの予備軍である)が工場のゲートの格子越しにじっと見ている場面だ。この場面は、工場と牢獄のイメージの共通性が指摘される後半の部分で、もう一度引用されることになる。