明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ゴーゴン幻想



狼男ものを何本かつづけて見ていて、ふと、テレンス・フィッシャーの『妖女ゴーゴン』が狼男のテーマの変奏であることに気づいた。これに気づいた人はまだいないのではないかと、大発見に胸を躍らせたが、騒いでもあまり共感はえられそうにないので、ここにひっそりと書きつけておく。


『妖女ゴーゴン』は、フランケンシュタイン、ドラキュラ、ミイラ男、狼男といったユニヴァーサル・ホラーの怪物たちを一通り映画にしてきたハマー・プロが、多少ネタ切れ気味になったときに撮った作品だ。ゴーゴンというと、レイ・ハリーハウゼン『タイタンの戦い』で見事に造形したこの怪物の姿がまず思い浮かぶ。しかし、ゴーゴンを主役にした映画は、このテレンス・フィッシャー作品が最初ではないだろうか。その意味では、ハマー・プロのホラー映画のなかでもこれは異色の作品である。

黒沢清は、この映画をホラーベスト50の第5位に選んで、絶賛している。わたしのホラーの趣味は、黒沢清のそれと必ずしも一致しないし、テレンス・フィッシャーもそれほど高く評価している映画作家ではない。だが、『妖女ゴーゴン』はフィッシャーの最高傑作だと思うし、大好きな作品である。



ゴーゴン(ゴーゴンは英語読み。ゴルゴンと書く方がたぶん正確である)については、特に説明する必要はないだろう。諸説あるが、一般には、ギリシア神話に登場する、ステンノ、エウリアレ、メドゥサの怪物三姉妹を総称してゴーゴンと呼ぶ。ただし、ほかのふたりはあまり有名でないので、ゴーゴンといえばメドゥサを指すことが多い。三姉妹はいずれも蛇の髪の毛をもち、見たものを石に変える魔力をもつとされる。

ただ、この映画が混乱させるのは、タイトルが "Gorgon" となっており、物語も明らかにゴーゴンの神話と結びつけられる内容であるにもかかわらず、作中に登場する怪物が「メガイラ」という名前で呼ばれていることだ。メガイラというのは、これも諸説あるのだが、一般に、ギリシア神話に登場するエリニュスと呼ばれる「復讐の女神」のひとりの名前で、彼女たちは、翼をもち、蛇の髪の毛をしていて、罪を犯した人間たちを追い詰めて、狂わせるといわれている。『旅芸人の記録』の下敷きにもなっているオレステイア三部作などにも登場する有名な存在なので、多少の文学的教養がある人なら知っているだろう。復讐の女神たちの数は最初不定だったが、のちにアレクト、メガイラ、ティシフォネの三姉妹に限定されたという。見られるとおり、ゴーゴンとエリニュスはいろいろと共通点が多いのだが、やはり別系統の神話と見た方がいいだろう。いちばんの違いは、エリニュスには、見たものを石に変える力はないということだ。

この映画の怪物がメガイラと呼ばれるのは、そのあたりを混同したのか、それとも意図的に曖昧にしようとしたのか。そもそも、ゴーゴンであれ、メガイラであれ、ギリシア神話の怪物が20世紀初頭の中央ヨーロッパに現れるという設定自体がいい加減といえばいい加減なのだから、あまり深く考えても仕方がないかもしれない。要は、この怪物がハマー・プロのオリジナルだったということだ。

(ちなみに、エリニュスは英語では "Furies" と呼ばれる。これは、アンソニー・マンの初期西部劇の傑作『復讐の荒野』のタイトルでもある。)


見ることが失うことと同義である、オルフェウスの神話とならんで、ゴーゴンは視覚にまつわる偉大な神話の一つである。それを見ると石に変えられてしまう怪物。それゆえ見ることが不可能な怪物。モンスターという言葉の語源が、ラテン語の monstrane(見せる)であるという説が正しいとするならば、ゴーゴンほど矛盾に満ちた怪物はないであろう。

(関係ないが、『シルビアの街で』は、オルフェウス神話の現代風アレンジと解釈することもできる作品だ。その意味で、この作品は、『めまい』や『ラ・ジュテ』といった作品の系譜に連なっている。だが、これは別の話だ。)


ゴーゴンは動く必要がない。人間のほうからのこのこと近づいてきて、勝手に死滅していくのだ。眼にするだけで、死んでしまう怪物。これほどやっかいな存在があるだろうか。だが、映画『妖女ゴーゴン』が、意外にも、一般にはそれほど高い評価を受けていないのには、この怪物の不動性がどうも関係しているようなのだ。この映画を見て、アクションに乏しいのが残念だと真顔でいってのける鈍感な人たちが少なくないのである。なにを的外れなことをいってるのだろうか。怪物が動かないということが、この映画の斬新さであったというのに。それにこの映画には、アクションがないというのも大間違いだ。恐ろしく圧縮されているので、一見アクションに乏しいように見えるだけなのだ。この映画のあっけないラスト・シーンほど、ヴォルテージの高い場面を、わたしはほかのテレンス・フィッシャー作品で見た記憶がない。


最後に、余談のようなかたちになってしまったが、『妖女ゴーゴン』がなぜ狼男のテーマの変奏であるかに簡単に触れておこう。この映画のゴーゴンがギリシア神話にかなりアレンジを加えたものであることはすでにふれた。なかでも最大のアレンジは、この映画のゴーゴンが人間に姿を変えることができるということだ。つまり、この映画のゴーゴンには変身能力があるのである。どうやら、この怪物はふだん人間の姿をしているらしいのだ。映画が後半になっていくにしたがって、ゴーゴンの正体はいったいだれなのかが問題になっていく。変身のテーマはむろんのこと、作品がミステリー仕立てになっているところも、多くの狼男ものと共通する点だ。だが、なによりも決定的なのは、ゴーゴンが満月の夜だけ姿を現すという点だろう。

これだけ並べてみると、狼男との共通点は明らかなのだが、狼男のテーマはゴーゴンの神話と巧みに融合されているので、いわれてみないと気づかないだろう。ひょっとすると、こんなことはすでに誰かがどこかでいっているのかもしれないが、これに自力で気づいたわたしは偉い、と、自画自賛してこの話を終わることにする。


テレンス・フィッシャーは日本でもかなり DVD 化されているのだが、なぜかこの作品はハマー・フィルム・コレクションに入っていない。下の DVD は海外版。ちなみに、パッケージの絵は The Curse of the Mummy's Tomb で、『妖女ゴーゴン』ではないので、念のため。このなかにはいっている、セス・ホルトの Scream of Fear は、ありがちの話と思わせておいて、ひとひねりある、なかなかよくできたサスペンスの佳作なので、一見の価値あり。