明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。





























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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ジャック・リヴェットが三度バルザックを映画化する


フランスではジャック・リヴェットの新作『Ne touchez pas la hache』が公開されていて、これが結構評判がいい。原作はバルザックの『ランジェ公爵夫人』。『アウト・ワン』『美しき諍い女』に続く3度目のバルザック作品の映画化である。

ランジェ公爵夫人』は『十三人組物語』の一篇だ。数年前に刊行された「人間喜劇」セレクションにはいっているが、いまは古本でしか手に入らないようである(そろそろちくま文庫で全集が出ないものか)。バルザックというとなにか古めかしい古典作家というイメージを抱いている人も多いだろう。しかし、だまされたと思って、たとえば『ラブイユーズ』でも読んでみてほしい。たしか、フランス語版では、序文をエリック・ロメールが書いている本だ。この無類のピカレスク小説を読んで面白くなかったら、わたしも諦めるしかない。あなたは小説のおもしろさがたぶんわからない人なのだ。

リヴェット、ロメール、そして、『夜霧の恋人たち』で『谷間の百合』を引用するトリュフォー『暗黒事件』を熱く語るゴダールヌーヴェル・ヴァーグが好きだというなら、バルザックぐらい読んでいないと話にならない。


『Ne touchez pas la hache』はベルリン映画祭に出品されていた作品なので、すでに日本にも噂は伝わっている。それに、わたしはまだ見ていないので、今日は映画とは直接、というかまったく関係のない話をしよう。"Ne touchez pas la hache" というフランス語についてだ。

"toucher" というフランス語は、英語の touch とほぼ同じような動詞である。基本的に「さわる」を意味する単語だが、そこから「感動させる」などという意味も派生する。"Ne touchez pas la hache" はこの動詞を否定命令形で使った文章で、直訳すると「斧にさわるな」という意味になる。

ところで、この動詞は、自動詞としても他動詞としても使われる。問題は、その使い分けが結構微妙なことだ。「さわる」という意味から、この動詞は直接目的語しかもたないと思いこんでいる人がいるようだが、それは間違いである。たとえば、ジャック・ベッケルの『現金に手を出すな』の原題は "Ne touchez pas au grisbi" であり、ここでの toucher は自動詞として用いられていて、grisbi(「現金」)は文法的には間接目的語になる。一方、リヴェットの "Ne touchez pas la hache" では、toucher は他動詞として用いられていて、hache は直接目的語に当たる。

両方とも「さわる」という意味で使われているところは同じなのだが、toucher が自動詞として使われている場合と、他動詞として使われている場合では、どのような違いがあるのだろうか。『ロワイヤル仏和辞典』には、「toucher qc. にはさわる人の感触が含まれるのに対し、toucher à.にはそれがなく、また強い衝撃も示さない」と書いてあるが、よくわからない説明だ。相変わらず、辞書は肝心なときに役に立たない。前に紹介した(これはしていなかったか)一川周史の『初学者も専門家も動詞オンチではフランス語はわからない』には、toucher à のほうは、「包括的に関係をもつ」というニュアンスがあり、à がはいらなければ、(直接目的補語)「そのもの "を" じかに触る」という意味になると書いてある。まだわかりにくいが、そこにあがっている例文をいくつか見ていくと何となく違いが見えてくるようだ。

toucher le but / au but (的に当てる/目的に近づく(核心に入る)
toucher le plafond / au plafond(〔頭が〕天井につく/つきそう)
toucher son salaire / à son salaire(給与を 受け取る/に手をつける)
toucher le tableau / au tableau(絵 を(に)触る/に手を加える)

こう並べてみると、微妙というよりはかなり明確な意味の違いがあることがわかる。最初の2例は、他動詞 + 直接目的補語が「接触」を、自動詞 + 間接目的補語が「接触寸前」を意味する場合があることを示している。あとの2例では、直接目的(à なし)の場合は対象に直接触ることを、à ありの場合は、もっと広い意味で対象と関係をもつことを示しているようだ。

だから、"Ne touchez pas au grisbi" を、「現金にさわるな」ではなく、「現金に手を出すな」と訳すのは正しいといえる。

と、つまらないことにこだわってしまった。しかし、こういうことにこだわらない人は語学の上達もあるレベルで止まってしまう。それだけはたしかだ。